璦憑姫と渦蛇辜 2章かりそめの①
夜を通し舟は滑り、陽の高くなるころには島影ひとつない紺碧に至った。
帆も櫓もない船がどうやって進むのか、島を出た翌朝になってタマヨリは知った。船影に沿って海亀が水を搔いている姿を見つけ、思わず歓声をあげ海面を覗き込むと、前後と左右に一匹ずつ海亀がぴたりと船底に張り付いていた。結わえられたように彼らはその背で船を運んでいる。
「ずげー!なして?なしてや?」
タマヨリはワダツミに詰め寄ったが、彼は何も答えずうるさそうに顔を背けた。
海蝕洞窟でタマヨリの世話を受けている頃から、彼は口数が少なかった。病の苦痛と衰弱のせいで口をきくのが辛いのだろうとタマヨリは思っていたが、回復した今も返事がくるのは稀である。自分の聞きたいことだけ聞いて、話したいことだけ話して後はだんまりだ。
「つまんねーのっ」
タマヨリの悪態も耳にすら届かないといった尊大さだ。
「ねえ、どこへ行くの?」
「……さあな」
「じゃあ、海亀しだい?」
長い沈黙があった。ねえ、と返事を促せば「馬鹿か」と返ってきた。
「ワダツミが行きたいとこへ亀が運んでくれるんだよね、そうだよね。ねえ、ずっと海の上なの?陸(おか)には上がらないの?」
「……陸か」
ワダツミは大儀そうにつぶやく。
「俺をな、船に乗せて流した馬鹿どもがいる……」
ゆっくり話すのがタマヨリにはじれったいが、口を挟むと話を切られるので黙って続きをまった。ワダツミはにやりと笑う。
「陸に戻って、そいつらの首を片っ端から削ぎ落していくのも良いかもな。あの鼠どもは俺の患いに付けこみ厄介払いしたつもりだろうが……。ああ、手始めにそうしよう」
タマヨリが思ったのは、陸の鼠なるものはまるで人間みたいだし首とはほんとうの首なのか、あれもこれも気にはなるがどこから聞いてよいかわからず黙った。
ワダツミは船底にねかせていた鉾を持ち上げた。それがいつからあったのかタマヨリは見当がつかない。彼が流れ着いた時は、身一つだったはずだ。洞窟暮らしの間も見かけた覚えはない。八尺ほどもありそうな大物をどこに隠し持っていたのか分からないが、ワダツミの持ち物であることに違いない。漆黒の柄に黒鈍色の穂を備え口金と石突は黄金色で、美しさと武器であることの野蛮さを備えたそれは、彼の手の中で鉄の重みに輝いていた。
「まあ、鼠の首などいくら払ったところで面白みもないが」
そう云うが鉾をひと払いしたので、ひゃあ!とタマヨリは頭を抱えてしゃがみ込んだ。払った先の波が切れて代わりに一筋の白い線が海面を走った。
「暇つぶしにはなろうな」
あぶねえなあ、と呟いて立ち上がると「取ってこい」とワダツミが云った。
「何を?」
「今日の飯だ」
波が切れたほうに何か浮かんでいる。ざぶんと飛び込み近づけば、名の分からぬ魚が浮いていた。
「食えるのか?」
タマヨリは自分の育った海が遠ざかりつつあることを感じた。ワダツミはタマヨリが運んだカジキを何も云わず引き上げた。
立ち泳ぎのままタマヨリは船が進んできた方をみた。何もない。空と海とは見慣れた姿のままなのに、ここはもうすでに遠い。
「兄ィさ、婆さ……」
墓守ができんくてすまん、と胸のうちで呟いた。一晩のことなのに、どうして自分はあの島をこうも遠く離れてしまったのだろう。今戻れば、なにもかも元通りになっているのではないかという気がする。
―婆さも村人もみな元気で、兄ィさが童達に囲まれながら浜を駆けまわっている……。兄ィさは子どもよりも子どものまんまで、でもそんな兄ィさがおれはいちばんだ。兄ィさがおれば、さびしいことなんてなかった。大きゅうなったらおれが兄ィさの嫁になってやるから、そしたら死ぬまで一緒におれるもん。死ぬまでずーと一緒におれるもん……。
タマヨリの目から出るしょっぱい水は、波がざぶざぶ洗っても波に交じって溢れてわいた。ほーうっと大きく息をつき、ようやく娘が振り返った時、船は遥か遠くへ去っていくところだった。
「あああああー!置いていくなー!!!」
カジキの身を削いで船べりに並べると、ワダツミはすることがなくなった。空と海のほか見るものがなくなり、目を閉じた。陽光は彼の薄い瞼をつきぬけて血の色を見せた。じっと赤い陰を透かし見れば、おぼろげな記憶の残像が乱舞した。
海が血に染まる。彼が蹂躙した無数の者たちの血が赤い汐となって『真海』を犯した。記憶の境はあいまな像を結び、割け、海を染めたのは己の血となった。躰を半分に割られ、故郷(くに)を追われ、人に堕ち、そこでまた人を殺した。同じだ。どこにいても同じ。
彼の力を讃えた人間もやがて彼を持て余した。陸の病に勝てず伏した彼を、ここぞとばかりに海へ流した。どこにいても追われる身だ。
行く先は決めていなかった。この外海内海どこへでも彼は行けたが、海境(うなさか)まではたどり着けないことをよく知っていた。故郷は彼の帰還を頑なに拒み、彼に人であることを強いた。
「つまらぬ」
彼は目を閉じたままつぶやいた。
「ワダツミ、いま泣いていた?」
目を開くとタマヨリがのぞき込んでいた。髪と着物から水を滴らせ、わずかに肩を上下させている。
「……!?」
「びっくりした?おれ、泳ぐの速いんだ」
タマヨリは着物の裾と髪を絞り、皮袋の水を喉を鳴らして飲んだ。
「おれはな、飛び魚やイルカとおんなじに泳げる。それに潜らせたら島の海女の誰よりも深いとこまでいける、半刻は息をとめていられる!」
「……島に戻りたいのだろう。泳げるならそのまま戻ればよいものを」
「ワダツミがひとりになってしまうぞ」
「馬鹿が」
「だって、今、泣いていたじゃろ」
「寝ていたのだ」
ふふふとタマヨリは笑った。
「お前が熱でうなされている時な、うわ言をいっとったぞ。『帰る』って」
そこで初めてワダツミの目の色が変わった。
「いいんじゃ、おれも泣くほど帰りてぇ気持ちは、わかる」
ワダツミは口を一文字に結びもう何も話さなくなった。日干ししたカジキの肉を食い、持ってきたアダンの実を齧り、夜になった。
岩礁に舟を寄せ、そこに舫って一晩明かした。
夜半、風が強くなる。燃え盛る火の夢をみてタマヨリが目を覚ますと、ワダツミは舟先に腰掛け、星を仰いでいた。そっと顔をあげて盗みると彼が見ているのは星ではなく、もっと遥かの別の何かだった。
「怖い夢を見た」
這い寄って膝がしらに触れたが振り払われはしなかった。
「……ワダツミ」
と呼び掛けてみる。
「家族はおるか?」
「……おらん」
タマヨリは膝がしらにそのまま頭を預けた。しだいに、嫌な汗とばくばくうるさい心音がひいていく。ゆっくりとワダツミが口を開いた。
「いるとすれば、弟か……」
「弟?」
「世にも醜い半身が『下海』に沈んでおろうな」
「うーん?どういうことじゃ……」
なかばまどろみの中でタマヨリは聞く。遠い昔語りのような言葉。
「海を掌る神を継ぐ者として生まれた男が、海を血と屍で埋めたのじゃ。それが気にくわぬと竜宮の者どもは追いやった。殺そうにも死なぬ男の躰を半分に割いてな」
「痛かった?」
「さて、覚えておらぬ」
「どうして今、生きているの?」
「千夜、血を断ちて人の姿を得た。片割れのことは知らぬ、波になったか魚になったか……、そのまま朽ちたか」
「……会いたい?」
「割かれた躰の半分を弟と呼ぶか知らんがな。同じ肉から生まれた双子じゃ、俺自身でもある」
「半分になったほうも会いたでねえか、だって躰の半分じゃろ」
「俺が持っているものはもう半分は持たぬ。ひとつをふたつにしたのだ」
「ひとつをふたつ……」
「俺が人の形をしておればむこうは人ではない。千切れた肉もそのまま、目も鼻も口もなかろう。そんなものが俺に会いたいと思うことがあろうか」
「うげ」
「だがな、その半分が持つ『真海』の力を俺に差し出すのなら、俺が醜さをひきうけんでもない。そうすれば、戻れる」
「どこに……?」
波音が消えた。静けさは波紋になってワダツミから溢れた。
「遠くじゃ。青海境(あおうなさか)の仙境。人が竜宮と呼ぶ……『真海』が故郷じゃ」
ワダツミの目は海を映してどこまでも黒い。声に波がよせた。
「還れぬ」
「…………同じじゃな」
タマヨリがそのまま目を閉じると、掌(たなごころ)が頭上に降りてきた。それから怖い夢は見なかった。
つづく