逆/光/遊/歩 #note創作大賞2022
手を繋いで眠りたいだけなんだ。
私にとって恋愛はそういうものだけど。
セックスしないと恋人ではないんですか?
■
抜け道に使ってるのか、大きなトラックが音を立てて店の前を通り過ぎた。
冬の朝のキーンとした空気に排気ガスが混じって、肺がしっかり汚染された感じになる。
「狭い道であんなにスピード出さんでもな」
開店待ちをしていた会員の延原さんがトラックのお尻を見送って言った。
「危ないですよね」
私ははきはき答える。ご年配の人にはひと言ひと言をはっきり分かりやすく。うちのスポーツジムは小型店舗で、会員は中高年が多いから、分かりやすく話すって大事な事。
『新春キャンペーン開催中』と書かれたノボリ旗を店の駐車場に立て終わると、ジャンパーにキャップ姿の延原さんに向けて、
「開くまでもう少しだけお待ちくださいね!今日も頑張りましょう!」
とガッツポーズを作ってみせた。分かりやすく。分かりやすく。
それから店の自動ドアを手動で押し開けていると、
「神谷さんさあ」
と背後から延原さんに呼び止められた。
「はい」
息が左肩に乗ってくるほど近くで、
「あんた良い子だから、良い人いるんでしょ?」
と言われた。
「はははは、いたらいいんですけどね」
「いるでしょ。彼氏。あんた男好きのする顔しとるよ、モテるでしょう」
「そんなこと言ってくれるの、延原さんだけですよ」
「選り好みしとらんと早く結婚した方がいいよ。若い時なんてあっちゅう間に過ぎちゃうよ」
「ほんとですね。私、もう若くないんで」
延原さんが一瞬きょとんとした隙に、会釈して自動ドアをすり抜けた。
「梓さん、口説かれてた?」
マットにコロコロローラーをかけていた同僚がにやっと笑った。いや別に、と笑って返す。
「延原さん、ちょっとねちっこいよね」
「おじさんだからしょうがないでしょ」
「おじいちゃんだけどね」
同僚の目線を追って、向こう側からは中の見えないドアの外を見たら、迷子みたいな頼りない顔で延原さんが突っ立っていた。
■
塚本から着信があったのは、恋人の日菜と夕ごはんを食べている時だった。バイパス沿いのパスタ屋はメニューの当たり外れが大きいけど、私の職場と日菜の帰宅コースの中間地点なのでよく利用した。
カルボナーラを巻き巻きしながら、
「あ、出てくれていいですよ」
と日菜はうながしてきたが、そのまま切ってしまった。
「いいよ、後で」
私は携帯を仕事用のトートバッグに戻しながら言った。
「職場から、ですか?」
遠慮がちに聞く彼女のほっぺたは、もちもちしていて水分量が多そうだ。
「日菜は基礎化粧品、何使ってるの?」
思ったことをそのまま口に出したら怒られた。
「話そらさないで下さいよ」
「あ、ごめんね。職場からじゃないよ」
「じゃあ誰ですか?」
「…………塚本っていう人」
「塚本さん?誰ですか?梓のオトモダチ?」
オトモダチに要らないニュアンスが入って、これは良からぬ事を疑われたのだと気づく。
「いや。友達ですらないから。言うなれば、友達の飼ってる犬みたいな……」
「犬は電話してきませんよね。なんか話をはぐらかしてないですか?」
私は困ってしまった。
塚本は、友達のヒモだ。
友達は真奈美という名で、バックパッカーで東南アジアとかオセアニアに出かけて行っては、数週間のはずが数か月帰ってこないなんてことがよくあった。
真奈美が留守の間、真奈美のうちには猫数匹と塚本が残され、塚本は猫の世話をして、塚本の世話は私がした。
それを付き合って1か月の恋人にどう言えばいいのか。そのまま言うしかないけど、納得してもらえるかな。
日菜は少しイラついた、でも音量を絞った声で「不安なんです」ともらしてから、堰を切ったように話しはじめた。
前の彼女もバイセクシュアルで、男ができたら振られたんです。私って本当に梓に好かれているのかなって思う時もありますし。梓は体触られるのあまり好きじゃないですよね、分かってるんですけど、それだけかなって。梓さん、結構競争率高かったんで、私を選んでくれて浮かれてるのかな、これってまだ片想いなのかな? やっぱり男の人との方が良かったりします? 嘘です。でもいくらキレイでも8歳年下の女の子と付き合えるなんてそうそうないですよ。
という事を話を混線させながら、こと細かく聞かされた。
競争率が高いとか知らないところでモテても実感がない。確かに8歳下と付き合うのもこれが最後だろうな。
ひとしきり話終わった時には、日菜の目に涙が浮かんでいた。
「もしかして生理前なのかな?」
と聞いたら中途半端な深呼吸が返ってきた。
「そう、ですね。……ああ。自分でも今気がついた」
「飲み物を頼もう。ココア、マシュマロ浮かべたの」
壁に貼られたポスターを見ながら店員さんを呼んだ。店はそこそこ混んでいたがすぐ来てくれた。
「やっぱり女は女のこと分かるから、いいですよね」
と笑う日菜に、私はぼんやりした顔に笑みを重ねるしかなかった。
いいのかいキミは?
それは言えなくて溜めてしまった気持ちだよね。いわゆる本音だよね。それを月経前の情緒のせいにして、全部流すつもりかい。
言ってすっきりするならいいけど、私からは言い返させてくれないんだね。
8歳上の私はお姉さんぶって、キミを甘やかしていればいいのかい。
日菜の運転で彼女のアパートに向かいながら考えた。
翌日の仕事もあるのでいつもならお店を出たらさよならだが、ひとりで帰りたくないというので乗った。部屋に行くのは二度目。付き合う前に手料理を振る舞ってくれた時に訪れて以来だ。想像以上に物と漫画の多い部屋だった。
お笑い番組を何となく見ながら、大きなまあるいクッションにくっついて座った。もたれかかってくるので頭ときれいな茶色い髪をゆっくり幾度も撫ぜた。
どれくらい経ったか、
「押し倒されたいですか?」
と囁かれた。
可愛かったのでそのまま抱きしめるべきか迷ったが、ちょっとだけ笑って立ち上がった。
「お茶ありがとう。バスが動いてるうちに帰るね。日菜はゆっくりお風呂に浸かりなよね」
そう言ったら彼女は居ずまいを正して、
「明日も早いのに付き合わせちゃってごめんなさい」
と小さく言った。
「別にいいよ、そんなこと」
シャインベージュのコートに袖を通したら、名残惜しそうにマフラーを巻いてくれた。
「女の子同士だとエッチしなくてもお付き合い、って思ってたりします?」
顔は見えなかったが、肩のこわばりが感情を抑えていることを伝えてくる。なのに声が平坦なのがかえってけなげな感じがして、
「そんなことないよ」
とできるだけ甘く答えた。
「ただ、私は……、そんなにしたいと思わなくて。誰に対してもなんだけど」
「はい。むりには良くないですよね。あの、性嫌悪とかじゃないですよね?」
「嫌悪はしてないよ。たぶんアセクシュアルなんだと思う」
「ああそういう事ですか」
何か説明するか、それとも弁解した方がいいのか。黙っていたら、
「そっちの人なんですね」
と言われた。
そっちってどっちだ。
「そう言われたら寂しいですよ。私は女の人しかダメだし、バイセクシュアルなら男の人と結婚だってできるし。私は友達や妹じゃなくて、梓の彼女になりたいのに……。なんかズルいし」
私がズルいだって? それを言っちゃおしめーよ。
「おやすみ」
そう言い残して玄関のドアを閉めた。
キンキンに冷えた空気が、頬を削ぐように冷たかった。バスの時刻を確かめようと携帯を見たら、通知が一件あった。
『お腹が空きました』
塚本からだった。
■
帰宅するとアパートの駐輪場の方から煙草の匂いが流れて来た。
それで塚本がいることが分かった。
塚本のことは、以後“あれ”もしくは“あいつ”と呼ばせてもらう。彼とかあの人とかいうのはしっくりこない。
真奈美は留守にする間、1万円とか多いと6,7万円くらいあいつに渡している。家賃も光熱費も彼女が払ってるのだから、煙草代と食費にそんなにはかからないと思う。
でも塚本はいつも金欠だ。
私の姿を見つけるとあいつはひょこひょこついて来て、玄関の前で、
「あのう、今、真奈美さんいなくて……」
とニコニコとヘコヘコの中間くらいの声で言った。
「知ってるけど」
「ちょっと食費が底つきまして。今、うちに調味料と猫缶しか残ってないんすよね」
「猫缶はあるんだ」
「ええ、ありますね」
「猫缶買う前に人間の飯を買え」
「………一理あります」
「角のコンビニの外に大根100円で出てたよ。あとツナ缶あれば何かできるでしょ。薄味にして猫もそれでいいんじゃない?」
「……………」
「何か言ってよ。寒いから中入るね」
「いや。梓さんすごいな!その発想はできない!」
「お願いだからそれくらいできて」
ドアを閉めようとしたら塚本も入ってきた。
「コンビニ向こうだよー」
声を張ってみたが、あいつはへろりんと笑って手を出した。
「大根を買うお金をいただけませんか」
「は!?100円もないんかい」
「探せばどっかから出てくるかも知れませんが……」
「煙草買う金はあるのにか!」
どれだけ呆れられても怯まないのが塚本の塚本たる所以だ。
そして、のらりくらりと言い交わす間に時々はさまれる笑顔が、悔しいがかわいい。無自覚にせよ自覚してるにせよ、それはこの何もできない男のキラームーブだ。
ほだされるとはこう言うことで、結局うちに上がりこまれてしまった。
冷え切った部屋の温度をエアコンの風でかき回して、メイクを落として、仕事着を洗濯機に放り込んだあたりでずっと気になっていたことを口にした。
「塚本くん。最近、お風呂入ってる?」
「そういえば入ってませんね」
やっぱりだ。ただでさえだらしないのが真奈美が居ないと、とことんだらしなくなる。私は潔癖症の傾向があって、風呂に入ってないとか無理なのだ。それに全身、猫と煙草の匂いが染み込んで、とにかくヤバい臭気を出している。
問答無用で風呂に送り込んで、剥ぎ取った服をいつもより洗剤多めで洗った。
私は身嗜みを整えるのは社会生活を送る最低限のマナーだと思っている。それもできない。
その日暮らしで。女に食わせてもらってる男。
どうしたらこう何もかもを頑張らずに生きられるのか謎だ。
その重みのなさをこっちは若干不安に感じるのに、本人は『フツー』の重力圏から抜け出している。
『フツー』に繋ぎ止められていることは、安心だし不自由だ。その外側に出ても、自由と不自由は入れ子状になっていて決して私を逃がさない。
結婚。
昼間の延原さんの言葉が脳裏でぐわっと存在感を増す。
そうだね。フツーに働いてる男の人とフツーに結婚するってこともできなくはないよね。
そしたら税金ばっか取られるギリギリの生活からも抜け出せるし。何より、一度結婚してしまえばもう結婚しないの? とは言われない。
恋人がいると言えば『彼氏』と言われる。
『彼女』だって『彼氏』だって変わりないのに。
それがフツーになればいいのにって、思っても、思ってるけど、取り立ててそれについて啓蒙的な活動をしようと思わない。
「なんかズルいし」
日菜の言葉を思い出す。
頭の中から芋蔓式に出てくる思考に、他人の言葉が乗っかって、なんだかもう濁ってるな。
目の前の洗濯機で、頭の中身も洗ってしまいたい。
「梓さーん、上がりますけどおー、裸だとまずいっすかねー」
ずるずる出てくる思考を塚本が一刀両断した。
「ダメダメダメ!ダメに決まってるでしょ」
慌てて自分のスウェットの上下とTシャツをバスルームの前に供えた。
「いやあシャワー浴びたのいつ以来だろう。すっげーさっぱり。痒いのとれたし」
塚本はバスタオルで色の抜けた髪をガシガシ拭きながら出てきた。かした服は多少寸足らずだがゆとりはある。塚本は細いのだ。それに背は高くないが骨格がスタイルの良さを保証している。
「痒いのって……。ノミが湧いてたんじゃないの?」
私は猫まみれで生活する塚本の姿を思い浮かべた。
あいつは気にする様子もなく、勝手知ったる他人のうちで料理を作り始めた。食材も勝手に使う。
「チーズありますか?」
「あるけどさ」
出てきたのはジャガイモにコンビーフを重ねたグラタンのようなもの。
「こないだ真奈美さんに作ってあげたら好評だったんですよ」
得意げに笑う何もできない男。
何もできない?
この人はこの人なりに働かずとも楽しくやってる。
たまにはこうやって真奈美をよろこばせてるんだろうな。いやまてよ。それはずばりただのヒモだろう。
ちゃっかりご飯も炊いていた塚本が、二人分盛り付けようとしていた。
「夕飯食べてきてるから、私の分はよかったのに」
「え、じゃあ明日チンして食べて下さい」
じっと立っていたら、
「あ、ぼくのことはお構いなく」と言われた。
別に何も構わないけどさ。
塚本は塚本だから。こうして一つ屋根の下で食事だなんだとしたところで、恋愛感情のひとつも湧かない。
でもその存在は、今もこの先何年後も私の何かを拭ってくれている。
■
カーテンの向こうで朝が始まっている。休日の堕落は幸福。
寝ている間に何か来たかもと思い携帯を見たが、日菜から連絡はない。
家に行った日から3日経ったが、おはようとお休み以上のやり取りがなかった。
彼女の瞳の光彩にグリーンが混ざるのが私は大好きだ。顔はおうとつの少ない日本人顔だし、祖先もみな日本人なのにそういうこともあるらしい。
女の子が好きな女の子に、好きだって言ってもらうのは単純に甘やかな幸せだった。
よくない? よくない? おかしいな? 処女じゃないんだよね? もしかして不感症? フツーよくなるんだけど。えーどっか普通じゃないのかな?
そう言った彼氏がいて、それで私は男の人と付き合うのがちょっとおっくうになっていたのだ。
別に女の子の体の方がいいとかそういうのではなかった。
でも、男が嫌になったから女と付き合うというのはズルいことなのだろうか。
「いや、違うな」
声に出して言ってみる。言ってみないと自分が考えたことだという確信が持てなかった。
「どっちでもいいの。私は……」
セックスに興味が持てない。したいとも思わない。時に苦痛でさえある。
私の好意は人に向けるのも花や動物に向けるのも変わりないのだと、そんな気がするのだ。
だから男とか女とか、考えたことがないのかもしれない。
それでも、キスをしてキスをしたら舌を入れて、それの何が気持ちいいのか分からなくても、彼女とする甘やかなことのひとつだから、それでよかった。
いったい今までどれだけの人と付き合って、どれだけの人と寝たんだろう。
人間なんてそれぞれ違うという乱暴な括りで、私と誰かを括りつけて、それで譲り合ったり傷つけあったり、そういうものが付き合うことなんだと、だけどもう思えなくなってる自分に気がついている。
誰かの好意で自分を満たしたい。
でも私は本当には誰かを満たせない。
セックスにおける男や女へのあれやこれやは向上した。でもかつての彼氏や彼女には、「梓は楽しんでないよね」と言われる。次に求められるのは女優になることかと思ったらしんどくなった。
見つめ合うだけでどうして人は繋がれないんだろう。
日菜に電話しようとした手が止まって、またぐずぐずと布団をかぶった。
■
昼過ぎに起きて、軽くストレッチをして冷蔵庫にあるものでお腹を満たしていたら、電話が鳴った。
日菜からだと思い勢いつけて出る直前で、画面上に姉の名前が出てるのに気づいた。
体の奥が一瞬萎縮して疲労の予感がした時には、もう出てしまっていた。
両親とともに暮らしてる姉は、時々連絡をよこす。
4つ上の姉はとても優秀だった。優秀過ぎて、勘違いした両親が医者にしようと意気込んだ。両親に加え親族の期待を一身に背負った姉は医学部に入った。
でも周りのもっと優秀な人間についていけなくなり、一年で精神的に病んで大学を中退した。
姉はずいぶん長いこと療養生活をしていたけど、同じ家にいながら私はその時の姉と話した記憶がほとんどない。姉に厳しくし過ぎたことを反省した両親が、私についてはほぼ放任になった。もともと姉と比べてできの悪い娘だったこともあるが。
ひとつだけ覚えているのが、姉が私の部屋に来て(普段そんなことしないのにその時だけ何故だったのか思い出せない)、私の漫画本を床にたたきつけて「ずるいずるい」と喚いたことだ。喚くだけでなく一冊を完膚なきまでにビリビリに破いた。
姉は漫画を読むことを禁じられていたし、それを守っていた。気持ちは分かる。でも姉の何かにつけ被害者然とした態度に、もともと疎遠だった(両親から勉強の邪魔になると近寄らせてもらえなかった)のがさらに苦手意識を育んで距離を置くようになった。
「寝てたでしょ」
と姉は言った。
「起きてたよ。ご飯食べてた」
数分前まで寝てたなんて絶対に言ってはいけない。きっと「いいご身分ね」とかなんとか言われちゃうのだ。
「別にいいんじゃない。一人暮らしなんだし」
「うん」
なんで決めつけてかかるんだろうな。姉は両親の様子と飼い犬のことを話した。両親のことはともかく、私が家を出た後飼い始めたポメラニアンのことはどうでもいい。それから私が最近した買い物について事細かに聞き出すと、
「ずるいよね、こっちのイオンにもその店入ってるけどさ、限定品は都会にしかないんだよねー」と言ってくる。
「え、じゃあ今度頼まれようか?」
一瞬むかっとした気持ちを抑えて提案したのに、
「別にいい」
と返された。
「話それだけ?」
切ろうとしたらようやく本題だ。グループホームに入所している祖父の誕生日祝いに一緒にいかないかとのことだった。
祖父の顔は長く見ていなかったが、姉と行くのは気が進まない。仕事を理由に断ると微妙な沈黙が訪れた。
薄情だとか気楽だとか、次に出てくる言葉に備えていたら、
「梓、結婚の予定はないの?」
と予想外のがきて、焦って「ない」と即答してしまった。
「ふううん。まださ、決まりじゃないんだけど、するかもしんない」
「え、お姉ちゃんするの?」
「まだ、わかんないけどさ」
これは良いことを聞いた。いくら苦手な姉でも祝福したい、寿ぎたい。なのに姉は、
「嫁に行かなかったほうが親の介護ね」
と言い残して電話を切った。
だから嫌いなのだ。
お姉ちゃんより可愛いと物心ついた時から言われていた私は、姉に対する優越感は確かにあった。
漫画やテレビを見て夜更かしするのも、学校からまっすぐ帰らず買い食いやゲーセンで遊ぶのも、姉には似合わない繊細な色やデザインの服を着るのも、それは私の自由だった。でもその自由は、心の中で姉の不自由と対比された。
姉はそんな私を何も言わずにじっとりと、あるいは目の端でさっと見てくるのだ。
「梓はズルい」。
爪の先でカリカリ削り取るように、その言葉で姉は私に傷をつける。
1度や2度なら薄皮に線が入るようなものだったのが、いつの間にか傷は深く、その言葉は内部から私を監視するようになった。
私は私の幸運にいつも免罪符を探している。
家の中だけで生きていた当時の姉は、私に罪悪感を与えることだけが息抜きというか、もしかしたら生きている実感だったのかもしれない。
今は地元の会社で事務職として勤め、結婚を考えるほどの相手までいる。恐れることなんて何もないのに、私の頭は言い訳だらけになる。
贅沢なんてしてない。田舎だと通販でしか買えないものがすぐ手に入るのは、都会に住んでいるからで、都会に住むには高い家賃をなけなしの給料から出し続けなければいけない。
他人の事情にはいつも鈍感。
羨ましいだけなら、してたら静観。
多少モテてもただの偶然。
胸おっきいのはたまたま遺伝。
ガンバってるよ。傷ついてるよ。うまくいってないよ。でもそこそこ楽しいよ。みんなと一緒だよ。
そう見せるためにする努力は誰への何のための努力だろう。
媚びていると言えるほど欲しがりでもなく。
うすらぼんやり何かに怯える。
ほどほどの勉強で楽しく過ごした学生時代は今となっては漠然。
離職転職繰り返すのは、時代と経済の必然。
手抜きで生きてるわけじゃないのになにその憮然。
私は何もズルくない。
また電話が鳴って今度こそ日菜だと思ったのに、塚本だった。
暇なのか? 暇なのだろう。ヒモだし、真奈美もいないし。
「なにー」
面倒くさいを煮詰めた声で出ると、塚本は先日のご飯と洗濯の礼を述べた。深々とお辞儀してる様が目に浮かぶような謝辞だ。
「それで、お礼といっては何ですが今晩飲みにいきませんか?」
「え、たかられてるの私?」
「違います。収入があったので奢らせて下さい」
「仕事みつけたの?」
「まあ、仕事……と言えば仕事ですが」
聞いた私が間違っていた。
「あ、パチスロね」
「そんなところです」
いつもならあいつの金で飲もうなんて思わないが、姉のことで少し気分が下がっていたので行くことにした。
■
駅の雑居ビルの二階の狭い通路の突き当り。イケメンがいるな、と思ったらあいつだった。浮足立った心の浮力を返して欲しい。
塚本の吸いかけの煙草が消えるのを待って、一緒に居酒屋へ入った。
店のガラス戸に映る自分の顔をちらりと確認。平日はめちゃくちゃメイクを頑張るので休日は肌を休ませるために、UVカットの乳液くらいで何もしていない。
どうせ塚本だし眉毛を描くだけにとどめた。それでも多分それなりにいい。
なんにせよ塚本といて楽なのは、ルックスが整っていることもある。変に持ち上げられたり僻まれたりするのは疲れる。なによりあいつは人生に対してなんの努力もしてなさそうに見えるし、どう考えてもきっとしてない。私の優越感と罪悪感はセットだから、どちらにも触れてくれるな。
飲み屋は50過ぎの主人だけで、いつもの黄色いガーベラみたいな女子店員はいなかった。木曜日の夜で、客ももう帰りそうなのが2組いるだけだった。
「今日はぼくが出しますからね」
と最初に塚本がやたらにこにこと言った。
「私はいいから真奈美に借りたお金返しなよ」
座敷席の座布団をひっくり返して座った。意味ないことだけど、直前に人が座っていたらなんか嫌だなと、潔癖症がうずいてしまう。
「それにさ、少しは貯金したほうがいいよ」
「いやいやいいやー」
と仁丹の匂いがしそうなおじさんっぽい言い方でごまかしてくる。
「梓さんには、いつもお世話になっていますから」
なんかこんな会話を定期的にしている気がする。私はため息をついた。
「枝豆、頼みますね」
自分のビールも頼んでヤニで黄色くなった歯をみせて笑う。前歯が1本ない。虫歯を放置しすぎると歯がとけて消滅するということを、塚本に出会って知った。
「真奈美さんは日本でも外国でもいいから、どっかあったかい所に移住してお店をやりたいんだそうです」
「真奈美っぽいね」
「だからぼくも考えているんです、どんなお店がいいかなって」
「えー、どこまで付いていくつもりなの?」
そう言ったら、あいつの眉毛は情けなくハの字になった。
「…………でもぼく、カラオケ上手いですよ」
「は?なんの役にたつの?」
「お客さんを楽しませるのに」
「カラオケ喫茶やるわけじゃないでしょ真奈美は。ホストでもいいから働きなよ」
「出勤するのがダルくて、一週間で辞めましたそれ」
「はあ。真奈美ももっとまともな男と付き合えばいいのに。いっそ別れればいいのに」
と言ってやれば、
「ぼくもそう思います」
と真面目な顔で答えられた。
「でも猫がいるから」
塚本は私にことわりもなく煙草に火をつける。
「真奈美さんはぼくがいなくても困らないけど、猫さんたちはぼくがいないと困るから」
とボソボソ言って携帯をとりだした。
「見ます?子猫生まれたんですよ。母猫がお世話しないから、ぼくが抱いて寝てるんですけどね」
写真を押し付けてくるから、チラッとみて「かわいいね」と言った。
塚本の猫好きトークは飽きている。流れてくる煙に大げさに顔をしかめたら、あわてて煙草をもみ消した。
私は店の主人が運んできたグラスに口をつけた。塚本はビールや水割りばかり注文するけど私はきついお酒をゆっくりとしかのまない。軽いお酒はお腹がたぷたぷになるしトイレも近くなる。外出先のトイレは使いたくない。
潔癖症の観点から言うと、塚本と至近距離で座るのも抵抗がある。真奈美も風呂に入らない子だけど、不思議と体臭が気にならなかった。塚本はいつも煙草と猫の匂いがした。
「梓さんはおモテになるそうですが」
「うっせーな。モテてもモテてもモテ足りないわ」
「なんでキレ気味なの?」と苦笑いして塚本は、焼酎をぐるぐるかき混ぜている。
「いやね、真奈美さんにはいかないのかなって、思って」
私は目の前のグラスに視線を落とした。どういう顔をすればいいのか分からなかった。
「今、付き合ってる人いるし」
「失礼しました」
「友達は、ずっと友達だし」
「はい」
「結局、誰とも恋愛うまくいかなくても、友達が残ってれば孤独にはならないじゃない」
「なんか保険みたいな言い方ですね。恋人さんとはうまくいってないんですか?」
ずかずか聞かれるけど、ほかに喋るネタもなくて日菜のことをぽっちり喋った。
喋っていたら淋しくなってきた。日菜とはこのまま、何かちぐはぐなまま別れてしまいそうな気がした。淋しい。そんなの淋しい。
「まあ、体の関係だけが恋人ではありませんからねえ」
塚本は急に恋愛のエキスパートみたいな口調で言う。そうですね。蛭みたいに相手から生活資金巻きあげる恋愛もおありでしょうから、と口にするのはさすがに意地悪だから、思うだけにとどめた。鳥軟骨を噛みしめる。
「いつか、体の相性いい人に会えますよ」
「性欲派の人には分からんだろうけど、ないんだよ。したいとか、して興奮するとか」
「性欲派なんて言葉初めて知りました」
「私が今作ったから」
はははと塚本が声をたてた。
「性欲派!性欲派!」
割りばし袋を手で広げながら、ペンありますかと聞いてくる。ボールペンを貸したらそこに性欲派と書き付けてひとりで笑っている。酔っ払いはなおも、
「字面、生々しい!」
清純派と似てるに全然違う、ぼくがAVプロデュースしたらパッケージに使っていいですか? とか言ってくるけど、たぶんもうありそう。
塚本を無視しタコわさに集中する。ワサビの部分のツンを待つ。
「早く歳を取りたい。一足飛びにバアさんになりたい」
と言ったら塚本は、
「なんで?」と笑った。
「枯れちらかした爺さんと干からびきった婆さんになって、縁側で茶を呑むのが夢なんだ」
「ああいいですね、そういうのー」
「若さって障害だよね」
「そうですねー」
「塚本くんでもそう思うんだ」
「だって僕のやってることって、20代でも50代でもできますもん」
「え?50になってもヒモなの?」
「そこは、プロの」
私はうんざりした顔をして見せた。
そんなことを話していたら店の主人が、
「カルパッチョ、どうですか?」
と聞いてきた。
客はいつの間にか私たちしかいなかった。
「あ、お願いしまーす」
と塚本が答えてしばらく待った。メニューにないからスペシャルなのかな、とちょっとわくわくして待った。
出てきたのはレタスとワカメの上にのった分厚い鮭のサクだった。刺身オン野菜。
顔を見合わせて黙ってしまった。私の知っているカルパッチョでも塚本知っているカルパッチョでもないことを確認しあって、醤油をかけて食べた。
試作品だったのか、主人の想像上のカルパッチョだったのか分からないけど、その後メニューに載ることも二度とカルパッチョを勧められることもなかった。
■
例えば考えるのだ。
日菜と出掛けた真冬の遊園地で。
自分に合わせて世界を変えるより、あらかじめ出来てる世界に自分をすり合わせていく方が、楽なんだ。
人影まばらな園内で、廻る観覧車と屋台の隙間に海が見えた。鉛色の板になった海が受け止める薄陽は、お盆の照りにしか見えない。世界はどこに美しさを隠してしまったんだろう。
「どうしたらちゃんと好きになってもらえますか?」
冷たい海風が彼女の鼻頭を赤くしていた。いつもより幼く見えれば見えるほど年上のように振舞わなければならない気がするけど、今日はちゃんと言うよ。
「ちゃんと好きだよ」
日菜は指を絡めてきて、互いの手袋越しだけどふかふかの奥にあるその芯を愛しんだ。
本当は男性と付き合う方が面倒なことや理不尽なことが減るって知ってる。どちらへでも行けるのがズルさなら、誠実の選択肢はひとつしかないね。でも結局キミの(あるいは誰かの)顔色を見ることに変わりないなら、それも誠実ではないと思うんだ。本当の意味で。
「愛してるんだったら、体を重ねたいって思うのが自然ですよ」
「そうだね。そうなんだろうね」
「本当に好きな人とだったら、気持ちいいいはずですよ」
「たぶんね……」
それは御伽噺だったりしないのかな?
みんな知ってるけど、誰もみたことのない魔法。カボチャが馬車になるような、キスで蛙が王子様になるような、そういう御伽噺。
その魔法の世界に自分をすり合わせても、最後の最後ベッドの中でバレてしまう。
私はどこを向けば淋しくないの。
「梓は……、私とじゃ、むり?」
メリーゴーランドに乗ろう。上下する馬の陶酔に運ばれて、同じところをぐるぐる回ろう。
ベッドの上じゃなくても楽しいよ。
キミのことが好きだよ。
夜通し好きな映画のことを話そう。
双子ルックではずかしげもなく街を歩こう。
食事している時も手をつないでいよう。
つらいときはずっと側にいてあげる。
いざとなったら「娘さんをください」って言おう。
例えば考えるのだ。
日菜と出掛けた真冬の遊園地で。
あらかじめ出来てる世の中のルールから、出ていく勇気がないわけじゃないんだ。
フツーの外側はいつだって怖いよ。お姉ちゃんが見てくる。不真面目に気まぐれに、自由の方へ行ってしまわないか私の中から見てくるんだ。
バイセクシュアルとかレズビアンとか、アセクシュアルだってそれは何かと何かを分けるための名詞じゃなくて。今より少し、自由になるための切符。
その言葉に自分を預けるには足りない。その代わりにキミがいる。
大好きな人とずっと一緒に生きていく。
だから、今日はちゃんと言うよ。
「日菜のこと愛してる」
「うそ……、じゃなくて…………ありがとう」
「でも、私の恋愛にセックスは含まれない」
■
インターホンではなくドアを直に叩く音に呼ばれた。
誰だかすぐわかるから、そのままドアを開けた。
「おう、真奈美ひさしぶり」
「うぃーっす」
いかにも成田から直行しましたというデカいリュックとぱんぱんに膨らんだ肩掛けの袋(かばん未満の形状)をさげていた。なんだかエスニックな匂いがしたけどそれは格好のせいでなく、真奈美の笑顔に燻蒸した南の国のあけすけなフレンドリーさから立ち上る匂いだった。
「それがあいつ入院しててさ」
「は?塚本が。どうしたの?」
「車に轢かれたんだって」
「大丈夫!」
一瞬血の気が下がった私を前に真奈美はケラケラと笑った。
「検査入院だから。でさ、あいつほんと馬鹿なんだよ」
聞けば呑んで夜道を歩いていたところ、車にひっかけられたらしい。運転していた若い男性は、謝罪して名刺も出して、病院にも行きましょうと申し出た。そこで素直に相手の保険屋からもらえるだけもらっておこう、とならないのが塚本の塚本たる所以だ。
見たところ怪我もなく、その時は酔って痛みもぶれぶれで、まあ大丈夫でしょうと思ったあいつは申し出を断った。
「夜道をふらふら歩いてたぼくも悪かったですから」
と連絡先ももらわず、もちろん警察を呼ぶこともなく、何事もなかったかのようにそこで別れた。
しかし翌朝、どうにもならない半身の激痛とそれに伴う発熱で、病院に行ったら検査しようということになったらしい。
「だから、鍵が閉まってて家に入れないんだよ。あずちゃん悪いんだけど、荷物置かせて」
真奈美はこれから病院に行くと言うので、私もついていくことにした。
「いや、思ったより元気そうでよかったよ」
病院に向かうほどほど混んだ電車の中で、真奈美一人が夏のように日に焼けている。
こうやって見渡すと老いも若きも何か重たい荷物を持ってるような顔をしていた。彼女だけが開け放した窓のカーテンみたいに軽やかだ。
「塚本?」
「まあ、あいつは大丈夫でしょ。電話口では大げさに言ってたけど。じゃなくて、あず」
「私が?」
「別れたんだって?落ち込んで今にも死にそうだって、あいつが言うからさ」
「うわ、余計なことを」
「アパレルの彼女だっけ?結構長かったよね」
「それは、前に付き合っていた子。日菜は会社員だった」
「えー、あんた私が日本を離れてる間にいったいなん股してんの?」
「人聞き悪い。別れてから付き合ってるよ」
「感心するわーよく切れ間なく続くよね」
「でも、もういいわ。さすがに」
そう言ったら真奈美は目を覗き込んで、にっと笑った。私は視線を吊革にそらしてから言ってみた。
「40か50くらいになってさ、お互いに結婚してなかったら、一緒に住まない?」
それは結構切実な願いだったりする。恋愛じゃなくていい。自分が見つけた人とただ、家族になりたい。
「うん、いいね」
真奈美は簡単に請け合ってくれた。
「別にそんなに先じゃなくてもいいよ。明日から一緒に住む?」
「まだいいよ。それに、一緒に住んだら塚本もついてくるじゃない」
汚いものでも摘まみ上げるような言い方に、彼女は大笑いした。乗客の目が集まって、真奈美が見返すと散った。
「ここ日本だった」
やってしまったと小さく舌をだした。
実は心配していたが、塚本の怪我はそれほどひどいものではなかった。
それより、塚本が保険に入ってるなどありえないことで、日帰り入院費と検査代を私と真奈美で立て替えた。いや戻ってこないからこれは寄付だ。
検査着姿で喫煙所に逃げたあいつを真奈美は捕まえて、なんで相手の連絡先をもらわなかったと責めた。
「いやあ、だってねえ。相手もすごい焦ってたし、責めるのもね……」
塚本はくねくねしながら謝っている。
「ってそのツケ払ってるのはだあれ?」
「……真奈美さん」
「と?」
「あれ、梓さんもですか?」
塚本がこっちを向いた。剥き出しの腕は猫のひっかき傷だらけで、擦りむいたところは縦にガーゼが貼ってある。転倒して打撲した肩はとくに処置をされていないようだった。
「いや、ちょっと泣かないでくださいよ……」
塚本がおろおろし始めた。
「あの、お金は返すように努力しますから」
「……いいから」
と言った私の目からは勝手に涙が出ていた。
そのわけのわからないお人好しが情けないのか、怪我がたいしたことなくてほっとしたのか、いや、日菜と別れて以来、別れというものに過敏になっているのだ。
「……生きててよかった」
もし大事に至っていたら、もう会えなくなっていたかもしれない。その予感そのものに泣いたのだ。でもこれでは塚本のことをめちゃくちゃ大好きな奴みたいじゃないか。恥ずかしい。
「違うから……」
と言ってもふたりにわかるはずはなく、大袈裟だなと笑われながら私は涙を拭いた。
最後には照れ泣きになってしまい、窓の外に顔を向けたら河津桜がもう咲いていた。
■ ■ ■ ■ ■
それから10年後。
この地域では柑橘類が貨幣のように流通する。
ちょっとした手助けのお礼や物々交換、時には道で行き合ったら、ぽんとオレンジ色の果実を渡される。
暖かい地方なので、どの家も庭先や畑の隅で夏みかんとか橙とか金柑を育てているのだ。
真奈美がやっている自宅兼アジアンカフェの敷地にも、もともと背の高さほどの木が植えられていて、皮が薄くて少しすっぱい柑橘類が穫れた。私も真奈美もそれがなんという名前の実なのか知らない。
でも小麦ちゃん(真奈美の娘だ)の保育園のお迎えを、近所のお母さんがしてくれた時など、お礼にもいで渡すのだ。それをみている小麦ちゃんは、その果実を「あぃがとんみかん」と呼んでいる。ありがとうの蜜柑、といいたいのだろう。
今日のカフェタイムのお客は長居で、4時には夜の営業までいったん店を閉めるのだが、まだまだ粘られそうだ。
厨房で洗い物をしていたら真奈美が、
「ちょっとオーダー入っててさ。小麦、頼める?」
と言ってきた。
「りょうかーい」
私はエプロンを取って、かわりに自転車の鍵を持って外に出た。
この店は数年前、真奈美と彼女のダンナで始めた。すぐに小麦ちゃんが生まれたが、ダンナは女を作って出て行ってしまった。
普段は近所の人と常連さんがぼちぼち訪れるくらいだが、観光地が近くにあって連休と夏は結構な忙しさだ。
最初は遊びに、次は手伝いに来て、それから一大決心でここに引っ越してきた。
姉からは、田舎から都会へ出たのに違う田舎に戻ったと揶揄される。その通りなんだけどね。姉は同じ田舎で母親になった。
保育園の駐車場で、すれ違う保護者にあいさつする。
私は真奈美の店の従業員なわけだが、先日小麦ちゃんに一緒に住んでいることをバラされてしまった。
「夜は、ママとこっちゃん(自分のこと)とあじゅちゃん(私のこと)で寝るんだよー」と保育士さんと数人のお母さんの前で宣言されてしまった。
なので人の顔色をちらりと窺ってしまうのだが、あいさつを交わす保護者はなんらこちらを気にしている様子もない。
じゃあ私も気にしない。
カフェの営業は11時からで、私は早朝から数時間、近所の立ち寄り温泉でも働いている。週4日のパートだが、1日が1週間があっという間に過ぎてしまって、実害のないことに気持ちをさく余裕はない。
「小麦ちゃーん、お姉ちゃんがお迎えきたよー」
保育士さんが部屋の隅で絵本を読んでいるのを呼んでくれた。本をしまってだだーっと駆けながら、小麦ちゃんは、
「とおる先生、違うよ、お姉ちゃんじゃなくてあじゅちゃんだよ」
と言う。とおる先生はにっこり笑う。
私は世界でひとりきりのあずちゃんという特別な存在になった気がした。
小麦ちゃんの世界は小さくまろやかで柔らかく内側から光っている。子どもってすごいな。
前かごに荷物を突っ込んで、自転車の後部に小麦ちゃんを固定して、浮腫み気味の脚に力をこめる。
梓はズルいよね。
他人の子どもの面倒みて母親気分を味わって、他人の夫婦が開いたカフェにちゃっかり居座って。姉の声が頭の中に響いたけど、それは自転車の加速と共に一瞬で流れ去った。
おうちおうち、駐車場、降り坂はビューン、おうち空き地、オレンジの木オレンジの木、それから畑。
私鉄の踏切を越えたら、私たちのおうちはすぐだ。
長居していたカップルの車はもうなくなっていて、準備中の札を下げたお店に入ろうとして人影に気がついた。
男の人だ。近所の山中さんが野菜でも届けに来てくれたのかと思ったが、シルエットが若い。
カウンターの向こうで真奈美が厳しい表情をしているのが見える。恐る恐るといった感じにドアを開けても男はこちらを振り向かなかった。
でも、誰か分かった。
真奈美のダンナのカワちゃんだ。
浮気して出て行ってからも、数回帰ってきたことはあるそうだ。籍はまだそのままにしてある。
「あれれ?パパかな?」
私の脚にまとわりついた小麦ちゃんがもじもじしている。
私は思わず小麦ちゃんの肩をぎゅっとつかんでしまった。
彼女お得意の遊びに「あれれパパかな」というものがある。ぬいぐるみをタオルやシーツに隠して、「誰でしょう?」「あれれママかな?」「あれれアンパンマンかな?」「あれれパパかな?」と一人で言いながら私に当てさせるゲームだ。
ママや(布団のシーツをかぶせている)やアンパンマン、時に小麦ちゃん本人が出てくることはあっても、パパが出てくることはない。
家出を繰り返す父親のことを彼女がどれだけ覚えているか分からない。
でも何故か胃がせり上げってくるような震えがきた。
「おかえり」
と真奈美が言ったので、カワちゃんが振り返った。
その時私が思ったことは、「塚本とは似てないな」だった。なぜか急にあいつの顔が浮かんできた。
塚本の繊細な造りと比べたら、カワちゃんは人が好さそうだが大雑把な容姿だった。
会釈をしたら、カワちゃんも慌てたように返してきた。でも目は小麦ちゃんを追っている。
「大きくなったなあ」
と呟くのを真奈美は鼻で笑ったが、
「お父さんだよ」
と小麦ちゃんを呼んだ。彼女はくねくねもじもじしていたが、意を決したようにふたりのほうへ近づいていった。
私は小麦ちゃんの荷物を、住居部分へ上がる階段の下に置くとそっと外へ出た。
遅れて、震えた理由を理解する。
私は、もしかしたら今から全てを失うのかもしれない。
話があるなら私はいない方がいいだろうと外に出たものの、あと1時間弱で夜の開店だし、遠くへ行くわけにもいかない。
手もちぶさたで、ありがとうの蜜柑の周囲をうろついた。
カワちゃんがなぜいるのか分からない。もしかしたら、正式に離婚するためにやってきたのかもしれないし、女と別れてよりを戻したいのかもしれない。
真奈美は私をいきなり首にはしないだろうし、公私ともにパートナーであることはお互い分かっている。
でもこれは、真奈美が私をとるかカワちゃんをとるかの話ではないのだ。
小麦ちゃんの世界にパパがいることのまろやかさを想うと、大人として守るべきは小麦ちゃんなのだと思った。
つやつやのオレンジの実を見ながら思った。
孤独を誰かの何かのせいにしない。
冬に向かう薄い日差しが果実を温め葉を光らせている。ありふれてるけどなんか綺麗だ。
孤独をひとのせいにしなければ、世界はいつも美しさを分けてくれる。
ひとっていうのはもちろん自分もふくめて。
カワちゃんが何をしたって、真奈美が何を決めたって、自分がしたこととしなかったことが諸手に余るようだとしても、孤独はただそこにあるものだ。最初から、苦く凜として。
それにしても、真奈美は男を見る目がない。
ヒモだったり浮気性だったり、なんで貧乏くじばかりひくのかな。
塚本とか、今となってはどうでもいいけど。真奈美に本命ができてあいつは姿を消した。潔く、ではなくしぶしぶと。あいつを知る友人から、10歳上の女性と付き合ってるとかビル管理の会社にいるらしいとか、風のたよりはちょいちょい入る。
塚本のことを思い出す時、塚本に含まれる私自身を思い出す。それは「塚本って男どうしようもなかったよな」と思い出す時のおまけについてくる私だ。
いつもは塚本と一緒に忘却され、意識されることなどまるでないのに、忘れることも捨てることもできない私の一部分。私であって私でない、宙ぶらりんで名前のつけようのないその私は、『塚本』っていう名前が思い浮かぶときだけ鮮明になる。
塚本という人間がいて、初めて存在を許されるような私自身。
それが今、どういうわけか押し寄せてくる。
塚本とはどうでもいいような事しかなかったのに、どうでもいい事って、結構忘れられない。例えば駅ビルの居酒屋で出されたカルパッチョとか。
あれは何だったのかな?
塚本、元気かな?
私は遠くへ来たよ。
カルパッチョ。
カルパッチョ。
カルパッチョ。
小麦ちゃんが呼んでいる。
終
読んでくれてありがとうございます。