璦憑姫と渦蛇辜 19章「父と娘」①
白い月と黒い海のはざまを死人に守られた舟がどこかを目指して進むのを、磯螺は見ていた。
その少し前、海の東に鮮血が広がるのも見た。
鯱が人を食ったのだ。ひとりを食いかけ、その脚を齧ったたところに別のひとりが飛び込んだ。
食うと食われるは海の中では絶え間なく起こっていることで珍しくもない。見るべきものはひとつだけだった。水鏡を橋渡しとした<道>からワダツミが現れたがその腕を失っていた。
鯱が咥えた『波濤』を追ってきたのだろう。水鏡の道を開いた術者の姿はない。代わりに人の男が同じ<道>から現れた。
男は迷わず鯱を目指した。鯱が離した鉾を握ったのはワダツミでなく男の方だった。鯱の口に咥えられた女を助けようと、隙間から喉へと鉾を突き立てた。その口の中から女を引き出すと、なおも荒ぶる鯱へ向かっていく。
水飛沫をあげて苦しげにのたうつ鯱に刺さった『波濤』を抜こうとするが叶わない。鯱の喉から湧き出す血で、桃色の泡沫が一体に満ちた。
食われた方は脚を無くして沈みかけている。男はワダツミを振り返った。振り返ってなにごとか告げると、鯱に寄り添った。時をおかずそのまま二体は水の中へ消えていった。
磯螺が目を留めたのはその後のことだった。
「おぬし/おぬしらの血はそのようなことに使うものにあらず」
磯螺は鰯の群れに姿を変えて、ワダツミに近づくと告げた。
「年寄りはよほど物見高いとみえる。しかも口煩くてかなわんな。消えろ」
ワダツミはそれを一蹴したが、鰯の磯螺は遠巻きに彼の周りをぐるぐる泳いだ。
凪いだ水面に片膝をついたワダツミは、礁玉を抱えていた。食い千切られた脚は腿の中ほどから血を流している。ワダツミはそれを自らの衣を裂いて縛り上げたあと、昏倒したままの礁玉の口元に切られて手のない右腕をあてがった。
そこから溢れる血が礁玉の口の周りを伝って、喉へ落ちていく。
礁玉の半身から流れる血とワダツミの腕から溢れる血が、彼の膝から脛へ流れ続けた。
「『海境』を越えられるよう戒めは解いてやったろう。おぬし/おぬしらはもう地上のことと関わりあうでない。かくあれば、神の血は神々の為にこそ使うべきじゃ」
鰯の群れは形を変えながら、ワダツミが睨むとみるやさっとその場を退いて、しかしつかず離れず様子を窺っている。
「その女人ひとり助けたところで、人の寿命など知れておる。おぬしの血は永久の都を支える神の力、一滴たりとて今は無駄にするでない」
「失せろと云ったろう、強突く張りの老耄が」
「いいや、云ってやるわい」
ワダツミが今は動かぬと見るや磯螺は強気に云い張った。
「気まぐれに殺し続けた荒御魂が今更よ。女人を救ったところで何にもなるまい。そのような施しは我々に何ももたらさぬ。人の世と神の領域は別物。
おぬし/おぬしらはただ無情の摂理であればよいのじゃ。何故おぬし/おぬしらがおるのか思い出せ。心得違いがあるなら、『竜宮』へ戻る前に教えておかねばならん!」
「『竜宮』へ戻る?おまえらの安寧のために俺たちを縛り付けることが目的であろう。戻ってほしくば、せいぜい八百万の神押し並べて額突き俺に乞うてみせよ」
「そうは云ってもおぬし/おぬしらは戻らずにはいられない。望郷の念にどれほど身を焼かれているか儂の目には隠しきれぬぞ」
「水鏡の予言………あれは『竜宮』の破滅を示している。俺に王座を用意しろ、そしてタマヨリに…………、タマヨリを人にしてやれ。そうすれば『竜宮』の延命は叶うだろう」
「それができんことはおぬし/おぬしらがいちばんよく分かっておるはずじゃ。『竜宮』への思慕こそが荒御魂、おぬしを『竜宮』へと変える。唯一の思慕こそが唯一のさだめ事じゃ。何を持っても変えられん」
そこでワダツミは口を噤んだ。
『海境』を越えればその身は故郷とひとつになる事を欲するだろう。押し留めようもなく、我が身は別の物へと変わっていく。帰りたい。しかし帰ればそこに己と呼べる者はいない。
求めるほど本来の望みとは離れていく。望み自体を捨てれば望みは叶うという、二律背反のさだめをワダツミはもう悟っていた。
礁玉の瞼が動いた。
「飲め。飲めば助かる」
ワダツミは口を開かせると腕を押し付けた。やっとのことで嚥下した喉が動いた。
「……………ビ………は?」
と礁玉の口が動いた。ワダツミは黙して口元から手を退けた。
「ナ………クラ……、し………んだ」
「ああ鯱は沈んだ。男も一緒に沈んだ」
礁玉は薄く目を開けた。青白くなった顔の中で目ばかりが爛々としていた。
「……イサ…ビを助けやってくれ。頼む」
「無理だ。男は毒が回っている」
「波座は……あたし、だ。あたしが亥去火を殺した………」
「いや。鯱は乙姫の術がかけられていた。獣を支配する術だ。おまえとは関係ない」
「…………それでも」
「喋るな」
イサリビは礁玉の体を抱えなおし立ち上がった。少しでも血が止まるように脚を上にするが礁玉は呻いた。気を保っていられるような痛みではない。
ワダツミはもう一度腕の血を飲ませようと口元に寄せた。
下から礁玉の眼がゆっくりと見上げた。
「それ…でも、生きろと…い、うのか」
「人は弱く醜く儚い。不覚にもお前は違うと思った、礁玉。だがお前もまた弱く醜く儚い」
「…………だろうな」
「だがお前は潰えてはならぬと俺は思った。その脆い命を抱いて、お前は強くあろうとした。人の住む世にかけがえがないものなど、なかった………」
それを聞き礁玉は目を細めた。
「しかしひとつあったのだ。だから生きろ」
礁玉の指がぴくりと動いた。ほかに動かせる力は残っていなかった。
「じきにお前の仲間が来る」
「………そ…か」
「こういう時に云うのだろうな………なんてことないさぁ……と」
「…………ワダ……ツ……?」
ワダツミの云った通り夜明けを待たずして海賊達は辿りついた。
その時には礁玉はこんこんと深い眠りの中にあった。西の空低く月は雲の谷に入り、光は朧になって海に零れた。空と雲の境目もさだかでなくなった海の上に影となって佇むワダツミは、礁玉を抱き抱えていた。
それを視界にとらえた浪の顔が強張った。
「息はあるか!」
距離をとったまま浪は声を大にして尋ねた。
「ある」
とワダツミが低く返答した。
「賽果座と肚竭穢土は停戦に至った。私達は手を引く。礁玉を返してもらおう」
「ああお前らは無駄骨を折ったわけだ。代償が高くついたな、兇族ども」
代償という言葉に浪の片目がひきつった。
「亥去火はどうした?」
「沈んだ」
カイとウズがいち早く得物に手をかけたのを、浪はすかさず制した。しかし掲げた手は震えている。
「おれ潜ってくるよ」
タマヨリがそう云って水に飛び込みかけたのをワダツミは止めた。
「もう数刻経っている。無駄だ。それよりこっちをどうにかしてやれ」
と礁玉を顎で示してみせた。
海賊達は目配せしあうと、カイ達の舟がワダツミに近づき、礁玉を受け取った。
「お頭あ!」
ウズが悲痛な声を上げた。誰もがその姿に驚愕した。生きているのが不思議だが生きている。次は皆が一斉にワダツミを見た。
どうして、いったい何が起きたのかと誰の目もそう云っていた。
「飼いの鯱に食われた」
「嘘だ!」
ワダツミに向けてタマヨリが食ってかかった。
「そんなわけない、波座は礁姐の相棒だ、片割れなんだ。そんなこと絶対にない!」
「魚を操っていたのは乙姫だが……」
「あ」
そこでタマヨリは事情を飲みこんだ。乙姫は海の生き物を、水鏡に映すことで意のままに操ることができるのだ。冷たい怒りが臓腑に満ちて悲しみは揮発した。
「じゃあ、亥去火は」
と聞いた声は抑えられている。
「鯱に襲われているところに俺と、あの男は着いた。男は、迷わず鯱に向かっていった。鯱の口をこじ開けて礁玉を逃し、『波濤』で鯱の体を裂いた」
「…………じゃあ波座も……」
「男は鯱に許しを乞い、俺に女を助けてくれとすがった」
ワダツミの口調は極めて抑揚ない。
「お前嘘を云っているだろう」
浪がワダツミを仇敵を見るような目で見据えて云った。
「嘘?なぜ俺が嘘をつく必要がある」
「誰がお前などにすがるか!亥去火を愚弄するつもりなら私は許さん」
「そうだ!そうだ!」
とハトとウズが声を合わせて追随した。
それを聞いてワダツミは薄く笑うと、
「どうして礁玉に息があると思う?」
と問いかけた。海賊達は黙してワダツミの次の言葉を待った。
「間髪入れず狂った鯱から礁玉を引き離したからだ、あの男が。毒の回った体で何度も鯱向かっていった。俺か?俺は見ていた。見るに値すると思ったからな」
「何でそんな無茶をするんだよ……」
その様を心内に浮かべたウズがくちびるを噛んだ。
「でも誰にも真似できないことをやったんだ」
とカイがウズの震える肩を抱いた。
「今際の際に男は俺に礁玉を託した。命のかけ引きを持ちかけたのはこいつだ。俺はこいつが死ぬ気でいるならそうすればよいと思っていたが…………、気が変わった。あの男の望んだことを継いでやろうと思った。俺の血にはその力があるのでな」
イオメがウズ達の舟に飛び移り、礁玉の着ていた服を脱がせ代わりに肌をぴたりと寄せた。礁玉の体は冷え切っている。命を繋いでもそのまま生き延びるのは難しいであろう。それを見てカイが着ていた服を脱いでふたりにかけた。
「お頭、生きてくだせえよ。だめですよ死んでは、死んでは亥去火が報われねえ」
イオメの反対側にもうひとりが入り礁玉を左右から温めた。
コトウが静かに浪の袖を引いた。
「腹の底から気にくわねえやつに頼んだんだ、ワシらのお頭を……。あいつにとっちゃあ、命より大切なものだからよぉ」
と諭してゆっくり首を振った。
「愚弄などされておらん。あいつの誇りは礁玉を護ることだ。最期まで戦った。勇者エリパシの子孫らしくな」
「………ああ、そうだなコトウ。私としたことが………」
「許しを乞うたのは、自ずから波座を手にかけることへの贖い。何度救われたか分からぬ仲間を討たねばならぬことは辛かったろうな、なあ、浪よ」
「ああ…………。でも猛る波座相手にそうするよりほかなかったのも分るさ、分るが…………」
云い淀みながらも浪はワダツミへ顔を向けた。
「ふたりの最期を見届けたか?」
「一緒に沈んでいったぞ」
「……一緒に」
「波座、ひとりぼっちじゃなくてよかったな」
ハトがぽつりと云った。
「毒の回った体で、海で最も強き獣を仕留めた人間など俺は他に知らない。それが我が事を差し置いて、女を助けろと頼んできた。気も変わるというものだ」
「………本当にあのワダツミか?」
浪が首を傾げるのも無理はなかった。
海賊の元にタマヨリ共々身を寄せていた時も、ただの一度も心を開くことも他人を認めることなかった。まさに虫を見るようにしか人を見ていなかったのだ。
変わったのは入れ墨が剥がれた姿形だけではないようだった。ワダツミは鷹揚に言葉を継いだ。
「別に誰が死のうと生きようと俺には関心がない。だが、生かしたいと思った。思わせたのだ。あの男はこの水潮に比肩するものなき益荒雄だった」
浪は亥去火の沈んだ海をじっと睨んでいた。こんこんと湧く悲しみに沈むように、その目は海の深みへどこまでもどこまでも降りていった。
続く
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