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眠るための廃墟#ネムキリスペクト

 晩夏、万雷の蝉しぐれ。
 これで終幕とばかりにがなりたてる蝉に耳を裏返され、雑木林の道なき道を奥へと向かっていた。けたたましい蟲とは裏腹に、暑さに澱んだ草木はよそよそしくこの先にあるものを故意に隠しているようだ。風のない道を伸び放題の草を踏んで歩く。汗が染みたTシャツが身体に張りつく不快をどうにもできずにいる。
 しばらく行くと、唐突に鉄塔が姿を現した。それは何かのシンボルのように見えた。例えば王国の入り口、国境線に立つ塔だ。錆びた三角錐には蔓草が全体の三分のニの辺りまで巻きついている。もちろんその頂きに掲げられる旗はない。それでも鉄塔は薄蒼い夏空を背景に、ただ此処に在るという役目に胸を張っていた。
 鉄塔の少し手前で雑木林は途切れ、ひらけた野原には稲科の雑草が蔓延っていた。海で生まれた風が僕を解放する。蝉の鳴き声を置き去りに現れた此処は、夏休みの最期の砦。僕の廃墟だ。

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 クハラ跡地。と地元では呼ばれているその廃墟は、僕の生まれるずっと前に遺棄された工場の跡地だ。クハラが久原という字を当てると知ったのはたまたまで、子どもの頃、“クハラ”にはどことなく外国風の響きを感じていた。
 いつの頃からあるか分からない廃墟は、少年の中ではもはや遺跡だった。
ローマやギリシャの古代遺跡さながらのロマンを僕はクハラ跡地に感じていた。
 家の者からも学校からも行ってはいけないとされていたが、僕は二つ上の兄や遊び仲間と共にその秘密の場所へ幾度となく乗りこんだ。クハラはコンクリート製の四角い建物群と蒲鉾型のドーム、それに従業員用の宿舎だった二階建ての長屋とで構成されていた。
ドームの天井は抜け落ち、鉄のアーチが剥き出しになっていたが、その大きさには圧倒された。いったい何を作っていたのか、今では知る人もいない。飛行船、戦艦、巨大なロボット………。そんなものが密造されていたのではないかと夢想を誘う。
 もう何年も訪れていなかったクハラへ、この暑い盛りに足を踏み入れたのにはわけがある。インターネット上で開催される泥人形達の祭典、ネムキリスペクトのお題が“ゴーストタウン”だからだ。僕はこのテーマで小説を書くことにしている。

 閑散とした駅前、シャッターを下ろした店舗が大半を占める商店街。この街で目立って新しい建物は高齢者施設だけ。僕が通っていた小学校も数年前に他校と統合され、それでももう一学年数人しかいないらしい。そんな時間の止まったような街こそがゴーストタウンで、カートを押して道の端をゆくご老体も、もはや半分ゴーストなのではないかと思ってしまう。
 そしてこの緩慢に死にゆく街の心臓がクハラ跡地ではないのだろうか。
 とっくに止まった心臓を抱えながら、自らが死んでいることに気が付かない街。
 小説の新鮮なインスピレーションを得るために、僕は真夏の真昼にクハラ跡地への探索を試みているというわけだ。

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 少年の日に訪れたクハラの地図をもう一度たどる。海岸線に沿った決して広くない平らな面に建物は継ぎ足すように建てられ、入り組んで密集していた。子どもの体感ではそれは一個の街であり迷宮だった。
 しかし地図で見てみれば広大だが街ひとつというのは大袈裟で、街外れの林を抜けなければ辿りつけない立地も、海から工業資材を運びこんでいたと考えれば理にかなっている。造られた物は海岸線沿いの私道から隣街のバイパスへ流していたと察せられた。そうなると工場が街の人々の目から秘匿されていたわけでもないのに、子どもの頃はなぜかそう思い込んでいた。
 まずはコンクリートの建物群のひとつに近寄ってみた。かつて入り込んだその場所も、いつ崩れてもおかしくないようなヒビだらけの壁を見ると足がすくんだ。  
 広い開口部から中を覗くと、深海のようなしずけさが満ちている。それは長い年月をかけて凝結し、ちょっとやそっとのことではほどけない静寂だ。壁の上方に空いた小さな窓(だったであろう穴)から鋭い角度で日光が差し込み、コンクリートの床に溜まった水を油のように光らせ、無造作に転がったパイプ椅子や不法投棄されたデスクトップ型パソコンなどの場違いな物体に影を与えていた。
 壁にスプレーで描かれた落書きがあるのをみると、まだここを訪れる人がいることが分かる。僕は一歩だけ内部に足を踏み入れた。
 僕を包んだのは圧倒的無関心だ。建物の天井は二階建より少し高いくらいで、ほぼ立方体に近い形をしている。そのほとんど何もない空間は僕を迎えるでもなく、拒絶するでもなく、そこに転がる椅子や電子機械と同じように何でもないものとした。一歩、二歩と侵入する。固い床を踏んで、外部とは違う温度を感じて、落書きのところまで進み、入り口を振り返った。開口部の明るさと内部の暗さのコントラストを目が飲み込む。僕は暗さの方に含まれながらただの異物であった。
 この場所の主役は人間ではない。建物そのもの、もしくは時間、謐けさ。そんなものだけが存在するに足るのだろう。僕は招かれざる客のような気分になって、入った時より足早にコンクリートの空間を脱した。

 僕は少し焦っていた。子どもの頃に感じた高揚感、未踏の地を冒す征服感、それから廃墟との一体感。そんなものはいったい何処へ行ってしまったのだろう。
 久原という会社は今は霧散し、この土地の所有者も定かではない。不法侵入と咎められたところで言い訳はいくつもできる。大人から禁じられたということがひとつのスリルだったとすればそれは風化してしまっていた。
 分かる、という事が目の前の事象をこんなにも平坦にしてしまうとは僕はおおいに落胆した。トトロにはもう会えない。それが最初に心に落ちてきた言葉だった。
 此処に来たならば望むものが全自動で注がれると勝手に思っていたのだ。とうの昔に大人になってしまった僕には今更ながらの感傷である。だが失望を胸中から締め出すと、泣きたいような変にスカスカした空洞だけが残った。かといって泣くほどに感情は昂ったりはしない。漠然とした厄介な喪失感を持て余して、出てきたコンクリート群を振り返った。
 子どもの兄と僕とが今にも顔を覗かせそうな気がした。懐かしさに彩られてそれはあった。もう一度探そうと思った。

 コンクリートの建物群の間から線路が伸びている。それは錆色の露石を従えてまっすぐに海へつながっているはずだ。荷運び用のトロッコがあったのだろうか。動力は全て消え去り、線路の向かう先は草に覆われて見えない。とうの昔に役割を終えた物が、行く宛のない者に進む意思だけを示していた。 
 僕は錆びついた線路に沿って歩き始めた。海の方ではなく、その線路の出発点、廃墟の心臓部分を目指して。 
『血があつい鉄道ならば 走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう』。
不意に寺山修司の詩の断片が心に浮かんだ。僕はそれを唇に浮かべた。
 「『血があつい鉄道ならば 
 走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう
 同じ時代の誰かが 地を穿つさびしい響きを後にして
 私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の最後のページをめくる男だ』」 
 それでだいぶ気分も盛り返してきた。寺山修司の退廃と非日常感、圧倒的な個性を思い出し、僕はいつか見た白塗りの役者達の姿を廃墟に重ねていた。無人の廃墟と虚構の親和性に暫し夢中になった。強すぎる日差しの下、白塗り達の幻は体中で演じながら、跳ね回り台詞を叫んで、鉄塔に駆け上り、コンクリートの窓から顔を出し、線路の枕木に一人ずつ整列し、僕の集中力が切れた途端蜘蛛の子を散らすように弾け消えた。

 ふと、此処は何処だろうと思った。
 今という時間、此処という場所。その手応えはどこに何に求めたらいいのか。
 今の白塗りの役者達がただの空想だとどうして言えようか。僕ひとりしか居ないのに。
 クハラに時間は流れていない。いや、二重の時間が流れているとも言える。かつてこの場所が稼働していた頃の、過去、今となっては架空の時間。そして2023年8月◯日という僕が属する時間。いや待てそれだけではなく、僕の子ども頃の記憶の中の時間もあると気がつく。だとすれば三重かも知れない。
 いずれにせよ、忘れられた場所は忘れられた場所特有の時間の流れ方があるのだろう。そんな感覚に誘われるまま白昼夢の領域へ踏み込む。帰りたいと願った。この捻れた時間の間隙から僕の少年時代まで、そのまま行ってしまうことができたら。
 蝉が一匹、雑木林から飛来して目の前を横切っていった。それに驚き思わず身をすくめると、目の端に女の人の姿をとらえた。数秒遅れで僕はハッとしてその女性と思しき人の姿を探したが、もうどこにもいなかった。見間違いというには鮮烈だった。



 そういえば兄達と訪れた時は、宿舎は絶好の肝試しスポットとして機能していたことを思い出した。無機質なコンクリート群やドームに比べ、宿舎跡には人が暮らした痕跡があり、それが奇妙な生々しさを醸し出すのだ。何かいるのでは? そう思わせる不穏さがあの場所にはあった。
 線路を逸れて宿舎の方へ体が自然と向かっていた。何かに誘われるように、頭の中の地図を頼りにコンクリート群とは反対の方向へ歩き出す。それらは記憶通り、松の生えた斜面を背に固く戸を閉ざして並んでいた。そのうちの何棟かは半壊に至り、比較的日当たりの良い場所にある棟は植物の蔓にのまれていた。その中の、歳月に汚れたモルタルの外壁を保つ一棟への侵入を試みることにした。
 宿舎はどれも二階建で昭和のアパートのような構造をしていた。共同の炊事場があり、娯楽室なのか応接室なのか共同の広間があり、六畳に満たない個人の部屋が整列している。

 筒抜けになった玄関には建設当時はモダンだっただろうタイルの意匠が凝らしてあった。共同の広間には腐ったようなソファが素知らぬ顔で並び、窓ガラスはことごとく割れて招かれざる植物が窓枠に絡み、床は大部分が抜け落ちている。しかしその奥へ長く伸びた廊下の左右には個室のドア枠が等間隔に並んでいた。その整然とした様が妙に小綺麗な印象を与え、誰かそこで今でも生活しているような認識の横滑りを起こさせた。
 床を踏み抜かないように慎重に足を進め、ドアの外れた個室の中をのぞいた。当然、何もない。それがかえってアパートの内覧に来たような錯覚をおこさせた。布団を敷いて、本棚のひとつも置けばもういっぱいだろうその部屋には巣箱のような安心感がある。手を伸ばせば届く位置に何でもあるというのは、案外居心地のいいものだ。
 此処では誰がどんな生活を送っていたのだろう。間取りから見て単身者用だ。おそらく男性の多い職場だったのだろう。時代背景は分からないが、社員に個室があるというのは中々の好待遇ではなかっただろうか。
 仕事を終えて戻ってくる。食事は自分で作ったのか、当番で回したのか、それとも用意してくれる人が別にいたのか。知らない時代の活気付いた台所が目に浮かぶ。大きな大きな薬缶には麦茶が、共同の冷蔵庫にはビールも冷えている。どんぶり飯をかっ食い、共同の広間に置かれた白黒のテレビを皆で見る。
 僕がその場に居たなら、きっと団欒を嫌ってひとりで本を抱えて部屋に篭るだろう。こんなにたくさんの部屋があるのだ。そういう風変わりというかへそ曲がりというか、僕のような人間もいたに違いない。
 エアコンのない部屋の窓は全開で、海からの風が届くのだろう。みかん箱を文机代わりに小説家気取りで原稿用紙に向かう。そのように暮らした誰かは何処へいってしまったのだろう。ノスタルジーは魔的な力を持って僕を揺らした。かつて此処で暮らした誰でもない誰かになって深く呼吸する。すると砕けたガラスは蘇り壁の染みも抜けた廊下も元に戻り、労働者達の活気を其処此処に感じるようになる。

 再び共同の広間戻り、その左右の炊事場とは反対の小部屋のような場所へ踏み込んだ。そこが床屋だとすぐにわかったのは特徴的な椅子のためだ。窓がないその部屋は外界の影響をあまり受けていなかった。棚には化粧品の小瓶が何十年と変わらぬ場所に居着いている。
 椅子は一台きりで褪せたグリーンの座面は埃に覆われ、リクライニングさせるためのバーは金属製で錆びついて動かない。足乗せ台まで無骨な金属で、それがかえってレトロな趣きを与えていた。
 目を上げると壁には着物姿の女性のカレンダーが貼られていた。どことなく先程見た女の人に似ている気がした。気のせいか母の若かりし頃にも似ている。そういえば再婚して大阪へ行った母とは長いこと会っていない。
 埃がつくのも気にせず床屋の椅子に腰を下ろしてみた。散髪されているような気分になる。背もたれに背中を預けて目を閉じてみた。遠くに蝉の声と風の音が聞こえる他は何もない。誰かが背後に立ったような気配がして、暑さとは違う汗が出た。目を開けようか開けまいか逡巡するうちに気配は消え、そっと薄目を開けたが誰もいなかった。
 つまずいたような早い動悸がして、弾かれたように立ち上がると宿舎を足早に出た。怖れがあることを何者かに悟られてはいけないという奇妙な緊張感をともなって、建物から出るまであくまで悠々とした訪問者を装った。 
 外界の光と熱をありがたく感じながら、自分の臆病さを嗤う余裕も生まれた。しかし再び目の前に女性が現れ、今度は小走りで線路の先へと消えていった。
 呼び止めようと手を伸ばしたが声は出なかった。薄気味悪いと思うよりその女性に惹きつけられる気持ちの方が優った。これは小説のネタとしてはかなり良い、といういってみれば下心もあったが、それよりも探していた誰かにようやく逢えたような懐かしさが僕を突き動かした。
 「待って!」
今度は喉の奥から絞り出したが、返事はなかった。
 彼女は明るい色のボトムに白いシャツを合わせ、髪はまとめられていた。服装からして三十代かもしかしたらもう少し上かも知れない。こんな辺鄙な廃墟へひとりでやってくる理由があるとすれば、写真を撮りに来た廃墟マニアという線しか思いつかない。女性からしたら怪しいのは僕の方であろう。過剰に追い回すようなことは慎もうと思うのであった。

 一度、脱した線路を再び心臓部目指して辿った。崩れたブロックや木材にたびたび行手を塞がれながらそれを乗り越えて進む。僕は自身が流動的な何かになりつつあるのを感じた。此処では風のほかは全て止まっている。でも僕は動く。瓦礫を登る、降りる、避ける、道を見つける。その繰り返しによって液体のようなものへと転じる。
 先程の恐怖心と女性の存在を確かめたい心理、本来の目的であるインスピレーションへの渇望が、僕の中で大きな渦を描いて攪拌され一段階上がった自由を希求する伸びやかさを得た。太陽は天頂に達し、溶鉱炉から放射されるような熱にあてられた。しかしこの先にあるもの、大きな秘密の見えない力で手繰り寄せられる。人目に触れることなく育まれた地上で最後の恐竜、主人を待ちづつけている不死の人造人間、樹木の皮膚と昆虫の翼を持った新しい生命体、永遠の夏休みを手に入れる鍵、つまり失われた少年時代が待っているのだ。

 線路はまっすぐにクハラの心臓に到達した。流体となった僕は血液のようにその懐へなだれ込み、くるくる周りながら天井を仰いだ。同じだった。記憶の中のそれと変わりなく、錆びたアーチは遥か頭上を覆っていた。鉄の背骨、鉄の肋骨。獣の骨格模型のようでもあり、飛び立とうとする絶滅した鳥類の翼のようでもあった。とにかく圧倒的に大きいのだ。
 高揚感の後に、「待っててくれた」と言う安堵がやってきて僕は何でも見てやろうという気分になって、蒲鉾型のドームのあらゆる場所の探索を始めた。
 床は重機で闇雲に削られたように、コンクリートが割られ場所によっては根こそぎ何かが持っていかれたような跡があった。壁だったか床だったか分からない瓦礫の飛び散り具合は戦禍を思わせる。徹底的に破壊された街だ。工場にあった使えそうな機材、長机や扉の類まで奪い去られ、奪えないものは徹底的に壊された。略奪者の証は天井近くにも刻まれ、遠くからでも見えるような巨大な時計の針も捥ぎ取られ不具の盤を晒していたが、その盤さえ半分が崩落していた。略奪者が奪ったのは物ばかりではない、時間もだ。
 時を刻むことさえ奪われたクハラは遠い昔の夢ばかり見る。時間は過去へ過去へと流れる。宿舎の時間を巻き戻し、線路の時間を巻き戻し、虚無の空間となったドームにも過去を招き入れようとする。
 しかしドームへ侵入するのは夢ばかりではなく旺盛な生命力だ。風と鳥とによって運ばれた植物の種子は芽吹きこの廃墟を故郷とする。瓦礫の隙間を縫って根を張り、陽光を求めて伸びる。ススキに似た植物が所々に伸び上がり灰色と錆色の空間にガラス質の緑の輝きを添えていた。それから、中央付近には栴檀せんだんの木が傘のように枝を広げ、また別の場所には痩せた南京櫨なんきんはぜがハート型の葉っぱを涼やかに揺らしていた。輝ける時代を失った寂寥の廃屋は植物という生命をその内側に得て、やがてくる歳月へと移っていくのだ。アーチはちょうどビニールの覆いを外した温室にも見え、木々もまるで人の手を介したように見目よいバランスで配置されている。自然とは時々思いがけない調和を見せてくれる。
 
 ドームの中をくまなく歩き回ったが、此処で会えると漠然と思っていた女性には会うことはなかった。
 ドームは左右に通路なのか別室なのか、幅三メートルほどで奥に果てしなく長い空間を備えた造りとなっていた。アーチの鉄骨は区切られ、屋根は波型のスレートが乗っていた残骸がある。こちらの屋台骨は木材なので後から継ぎ足して作った空間かも知れない。もちろん木は変色し崩落していた。
 しかしどういうわけか壁の一部が残り、そこへへばり着くように手摺が残っている。そしてそこに至る階段が空間を横切っていた。ただし階段はその手摺のある二階部分には達していない。二階がそもそも欠け落ちており、階段も半ばで折れて、内部の鉄骨を晒している。行き先のない階段と待ち続ける手摺とが向かいあって沈黙に沈黙を返していた。
 にわかに上階へ登ってみたくなった。かつてもこの役立たずの階段の切岸へ何度も挑み、結局兄が別の場所から上へ行く方法を編み出したのだ。それを思い出しながら忠実に再現する。瓦礫を足場に木材でスロープを作る。その先を手摺の隙間に差し込み、上下が動かないように固定する。これを勢いをつけて登るのだが、今の僕の体重及び運動神経ではバランスを崩してしまいそうだ。仕方なく材木に抱きついて毛虫のように擦り登るという無様なスタイルになった。苦労しつつもなんとか手摺の残った空間へ辿りつき、今日いちばんの充足感を得るに至った。
 上階からはドームの中が一望できた。瓦礫の奥に置き去りにされた機械や錆びたダクトを発見した。まだこの地に未踏の場所があるのかと胸が高鳴った。何に使われた機械なのか皆目見当がつかないがドームの広さにひけを取らない重厚感だ。漏斗型の金属を頭部に据えて、太いパイプで繋がれている。操作舵輪のようなものが左端に大小三つ並んでいた。鉄の身体を持つ巨人の心臓から伸びる大動脈と呼ぶに相応しい形だ。

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 その時、誰かが僕の名前を呼んだ。途切れた階段の頂上で女の人がこちらへ手を差し伸べている。白いシャツを見て探していた女性だとすぐにわかった。でもなぜ僕の名を知っているのか謎だ。
 はい、と返事したものの僕はその場を動けずにいた。それもそのはずで、上階部分と彼女のいる階段とは繋がっていない。空中に突き出した手摺に掴まって僕が、崩れた階段の上に彼女がいるという位置関係で、二人の間は何もない空間によって隔てられていた。
 母に似ていると思ったが近いのは背の高さと顔の輪郭くらいで、後はあまり似ていなかった。他人には違いないが誰だったのか思い出せない。すると今度は男性の声で名を呼ばれた。小走りに女性の立つ階段の下まで来たのは父親だった。
 父の知り合いなら僕の名前を知っていてもおかしくはないが、父親の印象が自分の知っているものと随分違う。着古したゴルフウェアでなく小綺麗な今時の格好をしている。白髪の交じった髪も七三分けでなく感じのよい短髪になっていた。その父は階段を恐る恐る登ると女性の手をそっと握った。
 僕の位置からでは全てが丸見えなのだ。なるほど父にも恋人ができて若作りしてると言うわけか。しかしどうして二人がこんな廃墟でデートなどしているのだろう。
 「どういうことだよ、親父」
と僕は父のあけすけな行動に多少うんざりしつつ聞いた。
 「親父じゃない」
と彼は言ってもう一度僕の名を口にした。
 「兄貴だよ、お前の」
そう言われよく見れば老けてはいるが自分の二つ上の兄である。兄は早口に説明した。
 「こちらは今、お付き合いしてる女性で紗和さわさんというんだ」
 「はじめまして紗和です」
女性も年齢は高めだがこの兄の見た目なら釣り合いが取れそうだと考えていると、
 「俺、結婚するんだよ」
と兄が言った。何と返していいか分からずおめでとうと言った。
 「こっちに来れないか? 」
と兄は聞いてきたがこっちとは階下のことだろう。僕は手摺伝いにきた道を戻ろうとしたが、紗和さんがそれを止めた。
 「この距離でしか、たぶん彼とは話せないと思うの」
と兄に告げる声が聞こえた。シャイな所があるのかもしれない。
 「いいよ。此処で話を聞くよ、なに、惚気? 」
と僕は笑った。兄は顔をくしゃくしゃさせて、それから目に涙をたたえた。
 「結婚ってそんなに嬉しいものかよ」
 「ああ、四十を越えてもう諦めてたんだが、いい人に巡り会えたよ」
 「ははは。兄貴ってそんな自虐をいうタイプだっけ。仕事は大変なの、随分老けちゃってストレス? 」
 兄はそれには答えず、僕をじっと見つめた。
 「お前はあの頃のままなんだな」
僕は兄の言わんとすることが分からず曖昧に笑うしかなかった。
 「あのな」
と意を決した声で兄が言った。
 「母さんが末期癌でもう長くないんだ。お前がどこにいるか・・・・・・・・・教えてほしい」

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 それから母の病状や再婚相手が献身的に看病していることなどを知らされた。最後に母親に会ったのが最近の気もするし随分会ってない気もした。とにかく今すぐ大阪へ向かうつもりだと前のめりになった。
 「なあ、こいつを母さん合わせることってできないんだろうか………」
兄は紗和さんに向けてそう絞り出した。何か会えない事情があるのかと僕の顔はひきつった。それを見て兄ははっとし表情を浮かべ、兄は諭すように言った。
 「きっと母さんも喜ぶよ。ずっとお前のことを気にしてた。母さんだけじゃない、俺も、親父もだ。随分探したんだ、お前がいなくなってから。最初は気まぐれな旅行だと思って大して心配しなかった。もっと早く探していたら、違ったかもしれない………。俺も母さんも、みんな後悔してる」
 「………なんか心配かけたようで悪いけど、でも心配し過ぎだよ。僕もこうして居るわけだし」
それきり言葉に詰まった兄の後を引き継いだのは紗和さんだった。
 「あなたは20年前に失踪したの。私はそういう突然いなくなった人を探すのを生業にしてるの。私が見つけるのは生きている人だったり亡くなった人だったりするんだけど。あなたのお兄さんとのお付き合いはたまたまだったけど、そういうことならと思って、今日は此処へ来たの」

 迷い込んだ油蝉が近くの瓦礫に張り付いてけたたましく鳴き始めた。兄を見た時の違和感や言葉の端々にあった不自然さが繋がる。僕は蝉が泣き止むのを待った。
 「最近TwitterがXになったんだ。そんなこと知っている幽霊がどこにいるの? 」
 僕の言葉尻にジジジジと蟲の声が重なる。兄の嗚咽がそれに重なる。
 「死者の意識がどんなふうに世界を掴むのか……私には分からないけど、興味深いわね」
紗和さんの言葉尻は柔らかく、やはりどことなくと母を思わせた。僕が生きていようが死んでいようが母に会いたいという気持ちだけが膨らんだ。ほとんど世界の全てがそれになった。
 「紗和さん、どうしたら母に会えますか? 」
 僕の質問に彼女は長いこと思案していた。それから、
 「こういう廃墟のような場所では、時間が澱み交錯するの。現実、と呼ばれる時間の中では会えなくても、何かのきっかけで会えることもあるわね」
 と、雲を掴むような話をされた。
 「じゃあ、どうして、僕らは今日、此処で会えたんですか? 」
 同じようにすれば母に会えるかもしれないと希みを託したが、答えたのは今度は兄だった。
 「お前は大学生の頃ブログをやっていただろう。俺、知らなかったけどさ、お前のパソコンから見つかったんだ。それで最後の更新が20年前の今日だった。………“僕は僕の少年時代をもう一度探します“って書いてあった。それっきりだった」
 兄は深く息を吸った。
 「よく内緒で忍び込んだよな、クハラ跡地。俺たちの秘密基地だった。それを何年か経ってから思い出した。もしかしたら此処にいるんじゃないかって。でも見つけられなかった。お前がどこかで生きているという希望も捨てなかった。でもお前の顔、二十歳のままだ………」
 ゆっくり思い出していたのは、パソコンの真っ白の画面だった。僕は小説を書こうとしていた。しかし出てくる言葉全てが重みもなければ無味乾燥だった。

 僕の原点。想像の源泉であり無尽蔵の夢の王国だったクハラへ足を向けたのは必然だった。遠ざかっていく少年時代。「大人になれ」と言って死刑執行人の姿をした僕自身が僕を殺しにくる毎日。死にたくないともがく感性がその手で自らをくびる。
 クハラへ。
 僕の身体は真夏の廃墟へ向かう。
 クハラへ。
 林を抜け鉄塔を見つけ、草原を越え、廃墟へ。
 クハラへ。 
 その心臓部で僕の命はついえた。

 「そっか、随分心配かけてしまったね。兄貴にも母さんにも………」
自然と手が伸び、僕の指先はアーチの一角を指す。
兄と紗和さんの視線がつられて登っていった。そこには昔、大きな時計があった。今はローマ数字を刻んだ文字盤の一部が引っかかっているだけだ。指はその下を指す。時計とその針が落下した先。機械の死角になって、やや窪んだそこは平面からでは認識しづらい。
 だから長いことそこに誰にも見つけられずいた。 
 紗和さんが頷いて僕を見た。僕は自分が彼女を求めていたわけを理解した。兄と彼女は指さされた場所まで歩くと落下した時計を押し上げた。
そこに僕の白い骨があった。







『眠るための廃墟』終わり

引用した詩:寺山修司『ロング・グッドバイ』(思潮社『寺山修司詩集』より)



























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