わたしがカフカだ
こんにちは。カフカです。嘘です。
どこからが自分で、どこからがインプットなのかわからないのですが、少なくとも、かなりカフカではないのでしょうか。
しかしカフカ無くして私がカフカであるということに気づくことはなかったでしょう。カフカであるはずなのに、カフカにはなれなかった。
この疑問と問いは自己を何によって形成されているのかということに気づかせてくれる。これを浮き彫りにするために一つの具体性を持った要素である「カフカ」を選んだ。
ここで発生する問題は、私が先天性のカフカなのか、後天性のカフカなのかということだ。
自分と違う点を埋めてしまったならそれは後天的だし、埋める前のわたしはもうどこにも存在していない。
先天性だったとしても他人な訳で、性別から国籍から背丈までまるっきり違う訳だから、どの様にわたしが元々カフカだったかを証明する術がない。
さて、ムーンエイジ・デイドリームを観てわたしはデヴィッドボウイだったような気もしていた。
違うのに。
ただ、あまりにも人生の進みが、今のところ同じで、もうすぐこれになる様な気がしてならなかったりして、「これが予告編か…?」と思ってしまった。
つまり、我々は自分の不確かな線をちょっとくっきりさせるために他人でコラージュして大急ぎで彩り、絵の具を混ぜる努力とかなしにカラーコピーのドットに目を瞑ってポップに、明瞭になろうとしているんだろう。