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オペラ:Lear

2019/11/24 @Palais Garnier

« Lear »は、1978年に、シェイクスピアの4大悲劇の1つ「リア王」をもとに、Aribert Reimannによって作曲されたオペラ。Aribert Reimann(アリベルト・ライマン)は、ドイツ人の作曲家で、とりわけ「リア王(オペラの題は単にLear)」や、カフカの「城」など、文学作品の翻案オペラによって知られているらしい。1936年ベルリン生まれで今も存命である。Dietrich Fischer-Diescau(ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ)という大歌手(Wikepediaを見てみたら、「100年に1人の」と、橋本環奈みたいな前口上がつけられるほど大歌手みたいだった/apple musicにディースカウのEssentialsがあった)の、“Singer’s composer”と呼ばれるほど、関係が深かったみたいだ。このLearも、ディースカウの提案によって書かれ、そしてディースカウが主演をやったらしい。ちなみに、1982年にオペラ座でやったときに作られた、フランス語バージョンもある。今回見たのは元々のドイツ語バージョン。

1982年当時のことを書いた記事。なんだか記事タイトルがテケテゥtテゥしているけど…パリ・オペラのサイト、気づいてなかったけどすっごく充実しててびっくりした。

今回の演出家(ディレクター)はCalixto Bieito(1963〜)という、スペイン出身で、現在はビルバオにあるTeatro Arriaga de Bilbaoという劇場の芸術監督を務めている。プログラムをパッと見る限り(スペイン語さっぱりわからないけど)面白そうな劇場だった。現代アートで一山当てた街ビルバオ、行ってみたいので、行った時には行こうと思った。でもこのBieitoさん、検索をかけてみると一番に「古典的なオペラの過激な解釈で知られる演出家です」と出てきてめっちゃ笑ってしまった。2000年代からずっとオペラ演出に専念しているらしく、いろんなオペラ作品の演出を行なっていて(賞もたくさんもらっている。Les Indes galantesのClement Cogitorさんとは違う経歴だ)、YouTubeにめちゃめちゃハイライト動画が上がっていたので見てみると、たしかに過激だった。なんちゃってミッキーとかいた。「オペラの過激な解釈」なんて今時さぁ〜〜みたいな気持ちだったけど、ちょっと廃墟になった遊園地に迷い込んじゃった、ブラックコメディーみたいな雰囲気をまとっていて、ああ…と思った。オペラのLearは古典作品ではないので、Bieitoさんがど真ん中の古典を演出した作品が見てみたいな、と思った。ちなみにBieitoさんは2016年にもLearをガルニエ宮でやっている。写真をちらと見る限り、2019年の演出と大きくは変えていなさそうだった。

恥ずかしながら、1幕と2幕の間にKindleで岩波文庫の『リア王』を買い、観終わったあとに読み始めた。シェイクスピアの話は、あらすじは知っているけど、漫画でしか読んだことない、みたいなのばっかり。戯曲だし、注がやたら多いし難しいしで、あんまり読んでいて面白くないと思っていた。だけど、Learを見てから『リア王』を読むと、めっちゃ面白かった!あの演出は、この注で言っていることをまんま示唆していたのか〜と謎解き気分で読めた。あと、シェイクスピアって凄くね?という気持ちになった。ヤバくない?登場人物の誰にも感情移入できないのに全宇宙の全てが行間に凝縮されていて運命の糸車が知らないうちにグルングルン回ってて登場人物全員死んだ!!!みたいな、、シェイクスピアは神に呪われていて成仏できず前世の記憶を引き継いだまま転生を繰り返し100度目の生でコレ書いたんじゃないか説を唱えたくなる系悲劇と思った(??)。なんでいまでもシェイクスピア精読の授業があるんだろう、なんでシェイクスピアが「使えない大学教養」の代名詞なんだろうとか、シェイクスピアに大小あれどみんなオブセッションを抱えている理由の一端がわかった気がした。

色々と演出で面白いな〜と思った部分はあるけれど、書いておきたいのはリーガンについて。

まずリーガンについて。

リア王には三人の娘がいる。長女がゴネリル、次女がリーガン、三女がコーディリア。コーディリアが良いモンで、あとの二人が悪いやつ。わたしの読解力の欠如によるかもしれないが、リア王のテクストを読んだときは、ゴネリルとリーガンの存在感にそれほど差があるようには思えなかったし、彼女たちの性格に差があるかどうかも私はあまり分からなかった。精読すると違うのかもしれないけど。。。

テクストを読んだとき、一応リア王の主人公はやっぱりリア王だな、という印象だった(「主人公」という言葉はあまり相応しくない気がするけど…)。だけど « Lear »は、リーガンが、副主人公なんじゃないか?というくらい強烈に描かれていた。ヒステリックで考えなしでエキセントリックな姉ゴネリル、夢見がちで理想主義者で甘ったれのコーディリア、その二人に挟まれたリーガンが最も複雑な感情を抱く、実際家の女性として、描かれていた気がした。コーディリアにはあまり存在感がなく、ゴネリルとリーガンの方が現実味があるキャラクターだというのは、テクストを読んだときにも思ったが (なんかのブログで、認知症なりかけの老人の介護に困る娘たちの話、という解釈もできるからリア王は現代的なのだ!みたいに書いていたものがあって、その印象が強かったせいか、テクストを読んだときは姉ふたりの方が普通の反応じゃないか…と思った)« Lear »の場合、特にその焦点はリーガンに当たっていた。ちなみにテクストではエドマンドの存在感も強いけど(リア王の中で、natureを強く主張しているのはエドマンドだ)、« Lear »ではそうでもない(あと美男子でもない…)。

そして、リーガンだけが編み上げのブーツを履いていた。他の人は裸足、または普通の革靴とかパンプスとか。前の上演の動画では、リーガンもゴネリルとかと同じようなパンプスなのだが、多分変更したんだろう。

自然とそうでないもの、との対立がリア王のストーリーを貫く一つの線になっているらしいが、その中で最後まで、何か大いなる力が働いているとしか思えない破滅の運命に抗っているゴネリルが、一番理性的で、自分自身のためだけに「普通の」判断をしていると思われるゴネリルだけが、足を強く縛り上げる編み上げブーツなのは面白いと思った。ちなみに他の人たちは、死ぬときいつのまにか靴を脱いでいて、死体が舞台上から消えても靴だけは残される。狂ったリア王はパンツ一丁に裸足、道化は黒いズボンと黒い帽子だけを身につけて裸足、この衣装の対比を見て、衣装によって「狂ってる度」を表しているんだな〜と私は解釈した。

衣装に関しては、逃げてるときのリア王たちが、パリによくいるホームレスさんたちまんまになるのも面白かった。ヨーロッパの「ホームレス」っぽい衣装、最近よく舞台上で見る。(カラフルだけどちぐはぐな服、どこかよれっとした感じ、ちょっと若そうな感じ、あとゴミ袋…みたいな…うまく言えないけど)

あとは断片的な感想。

舞台装置がかっこよかった。なんかSoulages の絵みたいな、白髪一雄みたいな、黒い木が互い違いに降りてきたりたたまれたりするだけのシンプルなものなんだけど、影にしてみたり幕にしてみたり、複雑な表現ができるものだな〜とおもった。

リア王が逃げるシーンで、絶滅収容所を想起させるような、ほとんど骸骨に見える人体がゆらーと奥の方を移動していったけど、あれはなんだったのか?そういう人体はテクストにはないはず。

道化役を演じたErnst Alischさんの存在感がすごかった。道化は1幕目しか出てこないのだが(リア王が狂っちゃった時に道化は姿を消す)、1幕の最後は、Alischさんが一人舞台上に立ち、観客席を舐め回すように、ただ見るのだ。ただ突っ立って首をぐぎぎぎぎ、と僅かに回して見てるだけでほとんど動かないのだが、ぞわわわわ〜〜〜〜とする。本当に。そして間違いなく、目が合った。(20€の席で見てるので合っているわけはないのだけど、本当にそう思った。)ああ、こんな動きだけで舞台上に立てるなんてスゲー、、、と思った。それだけでオペラ座全体が沈黙していた。万引きが見つかったときみたいに、ぎゅーっと時間が止まったみたいに感じた。

この道化の動作は、最後のリア王のユラユラにも通じる。最後のシーンは、無の叫びとともに、ただリア王が舞台ハジに座ってユラユラしながらこちらを見る。道化が何か意思をもって、客席を見回しているのにくらべ(なにか、客にこれから起こっていくことの目撃者、証言者となることを強要しているような、あるいは、観客の窃視を咎め立てるような、、というか、道化だけが、第四の壁をものともせず観客が舞台を見ていることを知っているような感じ)、リア王のゆらゆらは抜け殻感があった。

でもな、、Narrはマジでおじーちゃんだったけど、リア王は割と筋骨隆々のおじさんなのだ。観客からも分かるくらいに、脂ののったいい体をしている。それに気づいちゃうとちょっと道化ほどには怖くなかった。まあ、エドマンドも小太りのおじさんがやっていたし、これはオペラなのだから関係ないのだけど…

面白かった!









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