人生で幸せより面白いを取りたい!40代でシーシャプレイヤーになった経緯
離婚して頭の中が空っぽに
2021年3月、離婚調停を終えて、ぼくの頭の中はすっかり真っ白になってしまった。それまでずっと離婚が目的だったので、いざその目的を達成してしまうと、これから何をしていいのかまったくわからなくなった。
とはいえPTSDも治っておらず、歩いていて急にフラッシュバックが起きるみたいなことも続いていた。包丁は見るだけで吐き気がしたし、女性不信で新しく知り合う女性に人間性を求めることもできなかった。リハビリセンターにも通ってはいたが、やる気はまったく起きなかった。ぶっちゃけ、どうでもよかった。
それでも、生きていくのにはお金がかかる。裁判では公的機関からお金を借りていたし、リハビリにも治療費はかかる。なにかしら仕事をしなくては生きていけない。
この頃、人生の底の底だったかもしれないが、人生全体を通してみると、ぼくは運の良いほうだったと思う。
なぜなら30代で人生でやりたいこと、人生での夢のほとんどを叶えることができていたからだ。
だから、もうこの歳だし多くは望まず、生きられるだけ最低限働き、あとはサブスクで映画やアニメを見て過ごす。たまの休日にシーシャ屋へ行くくらいの感じで、ひっそり暮らしていくべきではないだろうか。
残りの人生、余生みたいなものだ。それに新しいパートナーなんか作る気もないのだから、がんばることもないじゃないか。残りの人生、消化試合として終わらそう。そんなことをぼんやりと感じながらその日その日を過ごしていた。空虚だった。
きっかけは昔の知り合いK氏からの誘い
そうして半年が過ぎた頃。昔の知り合いK氏と偶然クリスマスに飲む機会があった。知り合った頃、彼はまったく別の仕事をしていたが、きけば今はシーシャ屋を何店舗も経営しているという。ひさしぶりに会って飲んだ店も、彼が経営している恵比寿のシーシャ屋だった。飲みながら話していたら、「来年六本木に新店舗を作るので、ねりなくんシーシャ好きだったしスタッフやってみないか」と誘われた。ぼくは即答でやりたいとこたえた。
余生、人生2回目と思っていたからこそ、面白い、自分にとって新しい挑戦ができる!
なぜかって?そりゃ、「残りの人生を消化試合で暮らしていこう」は半年ですでに飽き飽きしてたからである。だってそうだろう。これまでの自分の性質上、「幸せ」よりも「面白い」を選択してきた。これはどんなことが起きてもぼくの中では変わらないみたいだった。
消化試合?無理無理。そもそもこの歳この歳と思っていたが、なんと日本人の平均寿命から考えると、まだせいぜい半分しか経ってない。しかも平均年齢以下でもあるんだぜ。びっくりだよね。たった半年でこの変化のない生活に飽き飽きしている自分に、とてもじゃないが、残りの人生、ひっそりと安全に過ごすことなんてつまらな過ぎて無理だ。
それなら、40代で今までやったこともない接客業、しかも大好きなシーシャ屋で、最低時給のフリーターからスタートする方が面白いじゃないか。
頭沸いてる?それ褒め言葉ね。
そもそもだ。先にも述べた通り、これは余生!余生なのだよ、チミ!
この余生という考え方も当初は人生消化試合みたいな消極的な考え方だった。しかし半年経ってみて、余生、つまり人生2回目なんだから、好きなことや新しいことにチャレンジしても怖くねーなという心境の変化が生まれた。
だって1度目の人生、おまえは夢をほぼ叶えたんだろう?ならこの余生、2度目の人生、新しいことにチャレンジすることに、そこまでのリスク考える必要あるか。いや、まったくない。自分が面白いと思うことをやっていこうじゃないか。そうギアがチェンジしたのだった。
若いひとの説教は真摯に受け止め、頭を垂れて教えを乞うこと!これぞ老害ならずの特効薬
これまでインタビュアーやライティング、ネットでの古物商をずっとやってきたが、接客業はバイトすら経験なく初めての経験だった。
自分の半分くらいの年齢の若い子に説教されるのも、自分の年齢をネタにされるのも、正直矢がものようにグサグサと毎回心に刺さった。あれはつらいな。でもね、それを素直に聞き、笑い流し、若い子に頭を垂れて教えを乞う。歳を重ねても謙虚でいる為には、こういう経験も大事だなと感じた。偉そうなオヤジ、老害にならない為の1番の特効薬だと思っている。
老害にならないために、30代以降の読者さま方、みな自分の地位とか関係ない何者でもない場所に行って、若い子たちから自分の知らないことに対して頭を垂れて教えを乞おうじゃないか。そこでイラっとせずに、とにかく若いひとから話を聞いて、新しいこと習う時は丁寧に接すること。ほっとくとあっという間に頭頑固な使えないおじおばになるぜ。
話を元に戻すが、そのクリスマスの半年後には、それまでの仕事を辞めて六本木でシーシャ屋スタッフとして働き始めた。きっかけをくれたK氏には感謝。
そしてその為にリハビリをがんばってPTSDも寛解させた。やはり、あれだな。どんな状態になっても人間、生きがいってものは持った方がいい。
翌年には浜松町・煙庭の現場責任者となり、それも後任に任せ、また単なる一シーシャプレイヤーに戻った。ちょうどロシアンセッティングでのシーシャを勉強したいなと思っていたところにワールドエンドのインスタでの画像をみつけて応募。それから今は、ワールドエンドのスタッフと煙庭の助っ人としてシーシャプレイヤーを続けている。
で。こんなことを書き始めたのも、ただ今(2024/7/9現在)、中耳炎からの内耳炎症で右耳が難聴になってしまい、半月ほど仕事を休んでいて(シーシャ屋スタッフ始めてからこんなに休んだのは初)、そいや、今どうして口から煙を吐く仕事しているのか、改めて文章にして振り返ってみようと思ったからだ。気まぐれである。
ただね、幸せではなく面白いを選択する人生は、基本的にリスクヘッジに弱い。だから、こんな病気になって長期休んだら、治ったら馬車馬のように働かないとやべーし、もし難聴が治らず眩暈もするようになったならば、シーシャ屋を続けることは到底できないだろう。そういうリスクは常に覚悟しておかなければならない。
まあ、その時はその時。そしたらまた新しい自分が面白そうだと思えることをやればいい。人生にかけがえのないことなんて、ない。必ず、新しい生きがいはみつかるし、新しく好きになるひともみつかる。
あまり深く考えず、人生楽しんでいこうぜ、ブラザー。
てことで、ご拝読ありがとうございました!
アスタ・ラ・ビスタ、ベイべー!!