空き家見て 江戸の人なら 何という
NHKの朝ドラ「らんまん」が先週終了した。牧野記念庭園が近所にあることもあって、最終回までほぼ欠かさずに観た。ドラマを通して、富太郎の植物学の道を極めようとする姿から、明治の男の気概を学んだ。男の気概とは関係ないが、東京に出てきた富太郎が住んだ場所が裏長屋だったのにはビックリした。明治時代になっても、庶民は江戸時代からある裏長屋に住み続けていたとは思ってもみなかった。
朝ドラで、明治時代の東京の住宅事情の一端を垣間見た訳だが、最近読んだ浅田次郎の短編集「五郎治殿 御始末」にも、同時代の住宅を巡る話が語られていた。徳川家の家臣たちは、慶喜に従って駿府に移り住むか、新政府に出仕して元の屋敷に住み続けるか、徳川、新政府どちらにも属さず新しい生活を始めるために屋敷を出て裏長屋に移り住むかの3択を迫られたのだそうだ。明治初頭に御家人が身の振り方について3択を迫られ、選択肢によって住居が違っていたのには驚いた。
江戸改め、東京の庶民はいつまで裏長屋に住んでいたのだろうか。「らんまん」での富太郎一家は、大正12年の関東大震災まで裏長屋暮らしだったが、他の多くの裏長屋の状況についてはドラマでは分からなかった。我々昭和世代にとっては、高度成長期に郊外に沢山できた団地が、江戸時代の裏長屋にあたるのかもしれない。裏長屋も団地も、江戸、東京で急増する人口を吸収するためにできたという共通点がある。しかし、江戸時代の裏長屋が300年以上存続したのに対して、昭和の団地はわずか50年で存続の危機に立たされている。
江戸時代の経済は循環型だったが、昭和、平成の経済は大量消費、使い捨て型だったことが、ここからも見て取れる。令和の今も、我が家の周辺では、空き家が増えている中で、新たな家が次々に建っており、使い捨て型が続いている。もし、この奇妙な光景を江戸の裏長屋の住人が見たら何と言うだろうか。「羨ましい」、「もったいない」それとも、「馬鹿げてる」。
(2023.10.06)