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ダ・ヴィンチ子宮全摘出手術12 術後4日目

ダ・ヴィンチという手術支援ロボットを使って、子宮全摘出手術を受けた。
34歳の5月半ばのこと。

寝言こわい

真夜中、うっすら目が覚めた。
21時の消灯時点で眠たかったが、4人も同じ部屋にいると、耳栓をしていても衣擦れの音や息や咳払いがかなり気になり、何度か入眠が妨げられた。
突然、隣のベッドから声がする。
何と言っているのか聞き取れない。
母音が強く、喃語のようにも聞こえる。
寝静まった病室で発するには不釣り合いな音量。
時々語尾が上がるので、もしかすると、夢の中で誰かと会話しているつもりなのかもしれない。
しかし、薄いカーテンの向こうで、常人には見えない何かを相手にしているのではないか、とも思えてくる。
端的に言って、怖かった。
ただの寝言とわかっているのに。
同室の全員が息を飲み、凍りついたのがわかった。
こんなときこそ、看護師さんが見回りに入って空気をガラッと変えてほしい。
あんなに穏やかで上品な奥さんにもこんな素顔があるのだと思うと、怖くなった。
何も隠せないし、私も知らず知らずうわごとを垂れ流していたのかもしれないと思うと恐ろしい。
おばちゃんはひとしきりしゃべって気が済んだのか、やがて静かになった。
私は一旦、知らない間に眠りに落ちた。
しかし、4時半ころにまた目が覚めてしまった。
結局、二度寝することができず、薄暗い病室で朝までスマホをいじってだらだらと過ごす。

7時を過ぎ、看護師さんがやって来て検温の時間を知らせる。
向かいのギャルは、もうすっかり足の感覚も戻って元気のようだ。
腰を痛そうにしているらしく、ベッドを少し起こしてもらっている。
私もやせ我慢せずに、そう伝えればよかったのか。
もう過ぎてしまったことだけれど。

窓の外はすごい霧。
7階にあるこのフロアのすぐ上くらいまで霧がおりてきているように思えた。
走る車も少なく、町はまだ眠っているようだ。

朝食

早く目覚めすぎた私にも、朝ごはんが用意される。
昨日一日、絶え間ない便意により、腸の中がすっきりしてしまったように感じられた。
おかげで朝から腹ぺこである。
入院前、毎日ビールを飲んでお腹が重たいまま朝を迎えていたのが噓のようだ。

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ごはん、味噌汁、ひじきと大豆の煮物、温泉卵、だししょうゆ、つぼ漬け、牛乳、ほうじ茶。
たんぱく質に特化したシンプル朝食。
卵とだしって何でこんなに美味いんだろう。
素材の味を知ることができる病院のごはんが大好きである。

満床になったこの病室、私以外は全員既婚者らしい。
子どもの有無はわからないが、全員とにかく食事を済ませるのが早い
横隔膜の異変を含めても私が20分かけて平らげる間に、隣と斜め向かいのおばちゃんたちは10分足らずでトレーの返却に立ってしまう。
うちの母もそうだが、忙しい主婦は早飯になる傾向があるようだ。
未婚で子無しの私は、いつまでも大人になれずに自分自身が子どものまま、ゆっくりゆっくり食事を味わう
でも、栄養士さんや調理スタッフさんが作ってくれたごはんを、じっくり美味しくいただく人がいてもいいよね。

向かいのギャルはお粥からのスタートのようだ。
脊椎麻酔だったとはいえ、回復が早い。
下膳に来た看護師さんが「あらー、残しちゃった?」と言っている。
「やわらかいご飯があまり好きじゃなくて…」
うんうん、わかるよ、お粥になったらなったらで一度に食べられないよね。

神出鬼没の主治医

先ほど、食事に手をつけようかどうかというとき、病室に突如主治医が現れた。
「○○さーん、具合どうですかー?」
前日に手術したばかりの向かいのギャルを見舞いに来たようだ。
「あ、何ともないでーす」
いや強すぎだろギャル。
「もう少しで歩けると思いますからねー。後でまた診察しますね」
「はーい、わかりました」
ギャルに恐れおののいていると、主治医が私のベッドのほうにもやってきた。
今日は白衣を着ている。
「練りものさん、その後どうですー?」
「頑張って歩いてますし、痛みも減ってます」
「そう。明日退院だと思いますからねー」
え、もう?
「今日この後血液検査しますのでー」
「は、はい…」
主治医は軽やかにターンし、颯爽と歩き去った。
フットワークが軽すぎて、院内でも神出鬼没。
こんなにマメに病室に来てくれる先生、他の診療科どころか婦人科にもいない気がする。

主治医の言うとおり、食後に血液検査の時間となった。
ベッドまで検査技師さんが来てくれる。
術後何度目かの血液検査だが、今日の技師さんは若い女性で、新人さんのようだ。
後ろにベテラン技師さんも控えている。
「練りものさん、採血させていただきます」
少し緊張しているだろうか。
「寝そべったほうがいいですか?座ったままでいいです?」
「えっと…」
新人さんが迷っていると、後ろからベテランさんがフォローする。
「こういうときはね、テーブル使いましょう。ちょっと高さ変えさせてもらいますね」
いつも食事に使っているテーブルの天板を少し高くし、そこに下腕を置くよう示された。
「ちょっとチクッとします。失礼します」
新人さんの手で針が刺される。
全然痛くないし、痺れもない。
腕は確かだよこの子。
「ありがとうございました」
採血は無事に終了。
あの新人さんの成長に期待である。

最後の口腔外科

午前中、10時台だったように思う。
「練りものさん、口腔外科の順番来たんだけど、今行けそう?」
ついに来たか、口腔外科。
「はい、行けます」
朝食後の歯磨きを済ませた後で良かった。
腹部を軽く手で押さえながら、廊下の手すりを頼りにして1階の口腔外科外来までゆっくりゆっくり歩いていく。
歩幅を大きくすると着地時の衝撃が強くなるので、小股で進む。
それでも、術後初日に比べると、ずいぶんと楽になったものだ。
病衣のまま、待合の椅子に腰かけて待つ。
L字のベンチの配置で、斜め前で向かい合う位置にいるおじいさんの視線を感じる。
呼び出し掲示板に番号が表示され、入室する。
診察室に通され、椅子に仰向けにされた。
今日は何をされるのだろう。
衛生士さんがやってきて、口の中をひととおり点検していく。
すぐに椅子の背が戻され、うがいするよう促された。
「先生が来ますのでお待ちください」
待つこと数分、体格の良いいつもの先生がやってきた。
「えーと、練りものさん。明日退院ですねー」
「はい、おかげさまで」
「前もお話したように、親知らずと虫歯がありますね」
「はい…」
「その治療はどうされますか?最後に通った歯医者さんにまた行ってみますか?」
いきなり知らないところじゃなくて、カルテの残っているところがもちろん良いだろう。
「はい、◯◯歯科さんに行ってみようと思います」
「そうですか。全身麻酔で親知らず全部抜くことになれば、たぶんこちらに紹介がくると思うので、そのときはやらせてもらいますよ」
「そのときにはよろしくお願いします」
「では、◯◯歯科さん宛てに、依頼状というものを書きます。これまでの経緯や状態を記した、紹介状みたいなものです」
「ありがとうございます」
「退院日までに書いて、病棟のスタッフに預けますね」
「あの…その依頼状は、有効期限などありますか…?」
「ないですよ。退院して、体調が落ち着いたら行ってみてください」
「わかりました」
「お大事になさってください」
「ありがとうございました」
依頼状を書いてもらえるということで、いきなり歯医者に乗り込むハードルが一気に下がった。
総合病院の先生が行けって言うんだもん、しょうがないですよね、へへ、という顔で行けるからすごく安心した。
子宮も治るし歯の方向性もついたし、最高だなこの病院。
一礼して診察室を出て、創が痛いながらも気分は軽やかに病棟に戻る。
行きのときよりも歩幅が広がった気さえした。

退院決まる

最終的な退院日がいまいちはっきりせず、もやもやしていた。
入院初日にもらった予定表では、あと3日間は入院しそうなことが書いてある。
午前中、回診の時間がやってきた。
何度かお会いしている、主治医より少し歳上の女性の先生がやってきた。
「お加減いかがですか?」
「歩くとちょっと創に響きますが、だいぶ良くなってます」
昨日の主治医に対してと同じことを言ってしまったが、こういうことしか本当に言えない。
「血液検査の結果でも、炎症もほとんどないみたいですね」
先生はクリップボードで何か資料を読み取っているようだ。
「明日退院ですよね」
「えっ、明日ですか!?ホントに!?」
「たぶん明日です。◯◯先生(主治医)が最終判断しますけれど」
「そうなんですね…」
「決まったらまた看護師さんから伝えますね」

昼食のちょっと前、看護師さんが病室にやってきた。
「練りものさん、明日、予定どおり退院になりました」
「そうですか。わかりました」
素直に言えば、もう少しここにいたかった。
減塩で一定カロリーで美味しい食事を三度三度いただける。
ベッドは電動。
看護師さんはみんな優しい。
主治医はキュート。
Wi-Fiもあるし昼寝もできる。
そして何より、仕事のことを考えなくてもいい。
むしろ考えるのが毒だと思われている。
こんなに素敵な環境をみすみす抜けるなんてもったいない。
術後7日まではいるつもりでだらだら過ごしてきたけど、これは忙しくなる。
今から少しずつでも荷造りの準備しなくちゃ。

そういえばB食の希望調査票、明後日の夕食の分をもう出してしまった。
食べる気満々でやだ恥ずかしい。

あと、こんなにいつ寝てもいい環境だけど、一度も昼寝をしなかったな。
普段から、本当に具合が悪いときしか昼寝をしないようにしている。
そのおかげで、夜から朝までぐっすり眠れるのだ。

昼食

午前中が慌ただしく過ぎ、すぐに昼食の時間になってしまった。

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ゆかりごはん、鮭塩焼き、いんげんとにんじんの炒り豆腐、大根おろし、だし醤油、バナナ、ほうじ茶。
味のついたごはんが出てくるのは初めてのことだった。
この大根おろしは、鮭と一緒に食べよということだろうか。
だし醤油のお世話になることなく完食することができた。
最大の難関はバナナである。
小さいころからバナナが苦手で、人生において可能な限り避けてきた。
しかし、このときばかりは避けられない。
これを食べなければならないほど腹が減っているわけではないが、食物繊維としてはこいつを無視できない。
安定した便通を得るためには、無理をしてでも摂取しなければならない。
薬だと思いながら、青臭い甘ったるさに耐えて何とか食べ切った。
バナナを一本食べ切ったのは何年ぶりだろう。
ありあまる満腹感に襲われ、背中も肩も重くだるい。

手術室看護師さん

昼食後、静かな午後がやってきた。
向かいのギャルはすたすた歩き回り、また動画を再生しにロビーへ足繁く通う。
隣のおばちゃんたちも順次手術に呼ばれているようだ。

「練りものさーん、ちょっといい?」
本を読んでいると、看護師さんに声をかけられた。
「はい、何でしょう?」
「手術のときに担当してくれた手術室の看護師さんが、その後の様子見て話聞きたいって言ってるんだけど、今日これから来ても大丈夫?」
「はい、かまいませんが…」
かまわない、それはそうだけれど。
私の心が突然騒ぎ出した。
手術の直前にめそめそしくしく泣いていたことが急に恥ずかしくなってきたのと、そのときの動揺を思い出してまた泣きたくなった。
もう終わったことなのに。
気を落ち着かせようと水を一口飲むと、喉に引っかかって咳が出た。
苦しいのにお腹の創も痛い。
すぐに涙目になるが、こりゃあちょうどいい。
泣きそうな感情による涙を、咳の反射によるものにカムフラージュしてしまえ。

10分も経たないうちに、手術室看護師さんが入室してきた。
濃紺のスクラブに不織布の帽子をかぶったままで、ちょっと持ち場を抜けてきましたといった感じでお忙しいのかもしれない。
「失礼しまーす」
「こんにちは」
まだ喉に水が引っかかって、きれいに声が出ない。
「すみません、ちょっと、咳が」
「だいじょうぶですか」
ベッドに腰かける私の足元にしゃがみ、目線を合わせてくれるが、それが恥ずかしい。
私は手のひらで胸を何度かとんとん叩く。
「その後、いかがですか?」
「日に日に良くなってる感じがします」
「熱は出ましたか?手術の直後、結構震えてたみたいだったので」
「38℃ちょっと出たみたいですが、その日の夜のうちに下がったと思います」
「あーよかったですー」
手術直前の不安が思い出されてまた泣きそうになる。
あのときみっともなく泣いてしまったことを詫びたい、手術で手厚いサポートをしてくれたことの礼をちゃんと言いたい。
でも、言ったらますます涙になりそうだったから、まずはそれをぐっと我慢した。
「お元気そうなお顔見られて良かったです。安心しました」
「こちらこそ、おかげさまで。本当にありがとうございました」
頭を下げたのは、泣きそうな顔を見られたくなかったから。
看護師さんが去ってから、腹圧がかからないよう慎重に鼻水をかんだ。

退屈だから歩く

入院6日目、術後4日目。
最大の退屈に襲われている。
持ち込んだ電子書籍リーダーには何十冊も詰まっており、未読のものもあったはずだ。
なのに、全然読む気が起きない。
創は痛むが、運動がしたい。
ベッド脇に立った際に、浅く屈伸運動して太腿の筋肉の維持に努めてはいたが、見える景色が変わるような刺激はない。
運動も兼ね、何かにつけてロビーに歩いていくようにしてみた。
コップに水を汲みに行く、ゴミを捨てに行く。
もう点滴スタンドはいつの間にか要らなくなっていた。
歩幅も少しずつ広がる。
スタッフステーションの前を通りかかったとき、ちょうど出てきた病棟師長さんに、
「練りものさん、調子良さそうね!ずっと頑張って歩いてたもんね」
と声をかけられた。
まさか、そう言われるとは、見られているとは思わず、嬉しいやら恥ずかしいやらの気持ちになってしまった。
こうした一言で、リハビリ頑張ろうという気になる。
明日からの退院後の生活に、少し希望をもてた。
ロビーに出ると、小上がりのようになった絨毯敷きのところに大きな窓があり、病室とは違った方角で町を一望することができた。
朝にどんよりと垂れていた霧はすっかり晴れ、ちぎれ雲がいくつかの向こうには真っ青な空が広がっている。
明日も晴れるといいな。
曇りや雨の日にひっそり退院するのは心細すぎる。
ロビーからまた元の道を辿り、病室の前を過ぎて廊下の突き当たりまで歩いた。
そこにも大きな窓があり、窓の前の手すりに手をつく。
片足を前に出し、ゆっくりと腕立て伏せのように腕を曲げていく。
下半身がうまく動かせないのなら、上半身を鍛えてやる。
これからますます筋力の低下が予想される。
せめて、手術前の状態を維持しておきたい。

ベッドに戻ってYouTubeを観てもやはり退屈。
明日になれば、Wi-Fiの時間も気にせずいくらでも観られるんだから、という思いもあって興がのらなかったのかもしれない。

夕食

最後の晩餐である。

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ごはん、味噌汁、揚げた薄い豚肉に野菜あんかけ、キャベツとあさりの炒め煮、キューちゃん、ほうじ茶。
また肉がやってきた。
またいつもの魚かと思っていたが。
ごくごく薄いトンカツであるが、衣も薄いのが嬉しい。
大学の学食の、肉が同じ厚さの衣に両面挟まれたトンカツよりずっと食べやすい。
衣にあんかけを吸わせるという減塩テクニックがここでも光っている。
3食の中で最も豊かな夕食がこれで最後だと思うと寂しい。
病院食だけ食べに来られるレストランとかひらいてくれないかしら。

知らぬ間に隣と斜め向かいのおばちゃんたちは手術を今日終えていた。
隣のおばちゃんはごく軽い処置で、バルーンも入れないし術後の絶食もないようで、もう普通に食事も摂れている。
斜め向かいのおばちゃんはまだ少し手間のかかる手術だったようで、今夜は絶食。
向かいのギャルはお粥に苦戦中。
今日も私は静かに手を合わせ、小さく「ごちそうさまでした」とつぶやく。

ロビーで初めてのテレビ

ロビーに行けば、テレビが観られる。
他に観ている人がいなければ、チャンネルを好きに変えて良い。
夕食後、少しでもシャバの空気を感じてみたくて、ロビーに出てNHKのニュースを入れた。
他に誰もいない。
天気予報で、明日は暖かく五月晴れ、と言っていた。
門出にふさわしい天気である。
地域のニュースがいくつか流れ、全国ニュースに切り替わるタイミングで席を立つ。
ロビーの後ろのほうの席に、一人おばさんが座っていた。
「あ、消しますか?どこかチャンネル変えますか?」
リモコンを振りながら、少し離れて声をかけてみる。
「観てないからいいよー」
「じゃあ、消しますね」
リモコンでテレビの電源を落とす。
病室の人と看護師さんと先生以外と言葉を交わした、数少ない機会だった。

おやすみ

21時が近づくと、もう自然と眠くなる。
20時半には歯磨きを済ませ、トイレに行き寝支度を整える。
今日は、明日の退院に備え、荷物を明日片付けやすいように少し整理しておく。
もう瞼が重たい。
周りの術後の皆さんも眠そうだ。
なるべく音を立てないようにそっと横になる。
消灯時刻、看護師さんがそっとカーテンの中を覗いてくる。
「うん、眠れそうだね」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみなさーい」
暗転。

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