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生きていてよかった な

CRYAMYの初アルバム、CRYAMY-red albumが発売されたので、ちょっと昔の自分のnoteを読んだ。
僕はあれを書いてた時、自意識から来る恥ずかしい気持ちでいっぱいだったけど、どうにかこの気持ちを残しておきたい。風化する前に写しておきたい。って思ってた。はずだ。
本当に残しておいて良かったと思う。あんな熱は今の自分にはほとんど無いこと、今の自分の気持ちは十分変化を経ていることが、ちゃんと記録されてた。
おおよそ1年半前になる初めてCRYAMYを見にライブハウスに行った日、「今はもう、死ななくてよかったと思える日を期待できる」そんなことを自分は思っていたらしい。
そう。今は全くもって死にたいとか思ってないんですよ。元気かと言われたら、そう簡単ではないんだけど。
おそらく、諦めを知ったということなんだろうなと思うんです。嫌な大人の仲間入りでしょうか。

その次に、コロナ禍に入りたての頃に書いたnoteで「大人になるって」とか言ってるのを見ると、まんまそのまんま僕は変化していってるなぁ、って少し気持ち悪いですけども。

そこでMOROHAアフロの言葉を借りて、感情から感性への変化が大人になるってことではないのかっていう風に考えてたけど、今もずっと、その考えは残ったままで、特別大きな感情にマイナスへと振り切られることも少なくなった。

そのぶん、大きな喜びもない。あれ、僕は、今もまだ20歳なんだけど、もっと小さい頃、どんな情熱があったんだろう。って思うと、1年半前のnoteはその時の感情を思い出させてくれて、恥ずかしいのを承知で言うけれど、自分の言葉に少し涙してしまった。

CRYAMYの新譜、とても良かった。
バンドを追いかけるって、どういうことなのかを全て教えてくれてる。気がする。
例えば友達は[ALEXANDROS]の前身、[Champagne]が好きだったけど、「メジャーに行って変わっちまった。」とか言って典型的な推し切りをしてたらしいんだけど、どこで推し切るかはともかくとしてバンドの変遷が自分の許容を超える。あるいは自分の許容の枠が移ってしまう、平たくいえば飽きちゃう場合もある。そういう風に、歪みが生まれる瞬間はどんな関係にも有り得ることで。
でもこの変化って、楽しさでもある。

きっと多くの人は「こういう音楽を聞きたいからあのアーティストを」とかいうふうに音楽を聴いてるんじゃないかなと思う。僕なんてそれが顕著で、顕著すぎてアルバム単位で流してるのがAppleMusicのReplayでバレる。同じアートワークが並びすぎてて新品のトランプみたいだった。つまらないね。。
でも、好きなアーティストを追いかけてた場合、そのまま違う感性へと引っ張られる機会に、自分の許容の枠まるごとずらされる。ひろげられる。そういう風に新しい自分に出会っていきたい。っていうのは1年前に書いてたな。
くるりなんてちょっと聞いただけだけど変化しすぎだから。これ昔からファンの人はついて行くだけで色んなところに連れてってもらえるみたいで楽しいんだろうな。なんて思う。

CRYAMYは1年前にnoteを書いた時からさらに、どんどん研ぎ澄まされていってる。
無駄なノイズが魅力的だった、荒削りだけど激しく刺さった。そんな初期の音像から、今はもう選び抜かれたノイズで、そんなんもう雑音じゃないやんけ!みたいな綺麗なノイズ。洗練されていっちゃって。バンドとしての完成度がとんでもなく高くなっちゃって。たまにそんな姿に寂しさを覚えながらも、こうやってただ、ただ、かっこよくなっていくことでこのバンドはもっと色んな人の心に訴えるようになるんじゃないか。って期待が膨らんでいってしまった。
こんな風に大きくなっていくのを楽しみに思える。思わせてくれるのを思うと、やっぱりずっと大好きでいてよかったなとおもうんです。
きっとこれから先も、これを聞くために生きてたと思わせてくれると信じちゃうんです。
ありがとう。
生きていてよかった。

でもライブのチケットが全く取れないのは許さん。



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