(翻訳)刃の上を歩くこと

5時間半という長さを誇る(!)Youtuber・Noah Caldwell-Gervaisさんのダークソウル3部作に対するビデオエッセーの中で、「オメェがよーくやれば良いだけ(Git Gud)」という英語圏でのフレーズに感じた違和感を説明するコメントがあまりにも素晴らしく、翻訳しました。

まず、カッコに入れのところが翻訳した内容であり、その下に、映像のリンクを貼っています。映像は英語で出来て長いというのが見るのに難点ではありますが、これ以外にも「別にそこまで強者じゃなくてもダークソウルは勝てるし、その柔軟性が良いところだ」という主張を述べているので、関心がある方は見てください。


「以前、私が煙の騎士という敵に詰んでいた頃、Game FAQかそこら辺であるポストを見かけた。作成者は「このボスほんとうイヤ。そもそもこれ倒すこと可能なのか?週末まるごと使ったのに、何も出来ず職場に戻るしかねぇーよ」という風に書いていた。

その下にある親切野郎曰く、「いや、お前はこのゲームに対する心得がなってないんだよ。このゲームは厳しいぞ。それは人生が厳しいのと一緒さ。でも小さなことから諦めてしまうと、次にはなんも学びはせん」だそうだ。

あいつは、二つの理由でくそ野郎だ。

まず最初に、我々は普通、長時間労働をしている人に「人生は厳しい」とは言わないからだ。そんなもんは誰でも知ってる。

次に、ダークソウルの要点がそもそも「人生と一緒ではない」からだ。ダークソウルは合理的で、一貫的で、予測可能であり、かつ公平だ。私がそうだったように、途中で詰んでしまうことはある。実際、ダークソウル3では三部作の中で一番詰んでた。でも、それが人生のように厳しく難しいから詰んだ訳ではない。このシリーズは、成功と失敗の狭間を切り込む鋭く細い刃を研ぐような制限の元、問題をシステムと一緒に解決する私の能力に挑戦する形で難しかったのだ。

ゲームがそうする理由は、人生がそのようなもの、だからではない。そっちの方がドラマチックだからだ。それが遊戯だからだ。その刃の上を歩くことが、今現在、目の前に広がる経験が生み出す緊張感への完全なる没入を要求するからだ。

そして、それこそが、人生が我々にほぼ提供することのない機会なのだ。

棚に品物を飾ることやスプレッドシートを作成すること、もしくはボックス単位で玉ねぎを剥くことなどは、なーんの劇的な要素もなく不確実性も介入しない。それがしんどいという事実は、貴方も他の皆も知っている。だからその仕事をやって給料をもらう訳だ。また、その仕事に頑張って最善を尽くしたって、その努力が無神経に搾取されることはない、という保証さえ何処にもいない。

ダークソウルは、自分で最善を尽くしてあるプロセスが作動する時に感じるカタルシスの一例であり、そのカタルシスが「よくやるんだ(Git Gud)」精神の構成要素でもある。私もある意味ではそういった主張に同義する。

何故ならば、ゲームが与える根本的な喜びというと、頑張ったら必ずその努力が報われることだからだ。それはもっとも強烈なカタルシスの中の一つだ。そうやって報われることが、ファンタジーの一部であるから。そうやって報われることが、ゲームの一部であるから。」

https://youtu.be/O_KVCFxnpj4?t=12712
(3:31:52~3:33:52)

https://youtube.com/clip/Ugkx4B5JK8NLSZ8pVaNFiKEvYAhKlOiwCsXo
(60秒切り抜きVer)

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