綾瀬穂乃香はかつて、くるみ割り人形だった。という話。
綾瀬穂乃香の二枚目のSSRが登場した際、その衣装、そしてイラストで描かれるお仕事が「くるみ割り人形」をモチーフとしたものだと知ったとき、少なからず驚いた。
かつて、「くるみ割り人形」は、穂乃香自身が、「決められたことしかできない道具」の象徴としてたとえたことがあったからだ。
バレエダンサーとして優秀だった穂乃香は、これまで、バレエ演目「くるみ割り人形」の「ヒロイン(おそらく少女クララ役)」として舞台に立ったことは何度かあったようだが、「くるみ割り人形(おもちゃの兵隊)」に扮することは初めてだと言う。
「今」、綾瀬穂乃香が、くるみ割り人形になる意味について。
今回は語ってみようと思う。
そもそもの話だが、くるみ割人形は「人形」ではない。
いや、男の子がバトルさせたり、女の子が着せ替えやごっこ遊びしたりする用途で作られた「玩具としての人形ではない」と言った方が正しいか。
くるみを割るという機能を考えるなら、生活用品のひとつ、缶切りやコルク抜きと同じ様な実用品とも言えるが、実は現在作られているほとんどのくるみ割り人形には、くるみを割る能力はない。
立ち位置としては、北海道の木彫りの熊や、こけしに近い。
棚の上に飾っておくもの。
お土産の民芸品だ。
そもそも疑問に思いはしないだろうか。
なぜ、くるみ割り人形は、人の形をしているのか。
くるみ割り。
英名は「ナッツクラッカー」であり、元々はくるみに限らず、小さな木の実全般を割る道具。
そんな道具を、わざわざ必然性のない人型に作った理由は単純明快。
今から300~400年昔の、ドイツ。
王や貴族・警官などの「権力」に鬱屈した不満を溜めた民衆が、「抵抗」や「皮肉」を込めて、「権力者たちをかたどった人形に、口でくるみを割らせる」という、日々の暮らしの中のささやかな鬱憤晴らしを思いついたことに端を発する。
つまり元々は、負の感情の具現化。
バカにされながら酷使されることが、くるみ割り人形の、生まれた理由だった。
これを一転させたのが、童話「くるみ割り人形とねずみの王様」。
元々は、E.T.A.ホフマンという作家が、友人の子供のために即興で書いたものであった。
少女のお気に入りのくるみ割り人形が夢の中に現れ、彼女を守り、彼女と共に、ねずみの王様と戦うという筋書き。
夢が覚めると、くるみ割り人形は人間の青年の姿となって、少女を迎えに来る、というところで物語が終わる。
この童話によって、くるみ割り人形に「ヒーロー性」が不与された。
(また、人形が命を持って動きだし活躍する、という構成が、その後の児童文学へも大きな影響を与えた)
そして、くるみ割り人形のイメージに、直接的・決定的に大きな影響を与えたのが、上述した童話をモデルにした、バレエ版「くるみ割り人形」。
簡略化されたり、ヒロインの名前が変更されたり、原作である童話とは色々な差異があるが、たとえば結末がかなり違う。
夢から覚めたあとも夢のつづきが始まる童話と違い、バレエでは、夢から覚めたそこが、純然とした現実、もしくは、夢の中なのか現実なのか、その境界が曖昧で終わる。
解釈が見る側に委ねられる、とも言える。
それから、少女の成長。
夢の中で、様々な経験を経た少女が、「大人の女性」へと成長する、というものだ。
これは、元々の童話にはなかった要素。
そうしたポジティブなイメージの強いバレエの影響もあり、時が過ぎるに従って、本来の「くるみ割り人形(演目ではなく道具の方)」も、あの「バレエで有名な(ヒーロー性を持った)」民芸品のおみやげとして、当初のうす暗いイメージは払拭されていき、現代では「くるみ割り機能」がオミットされたものがほとんどだ。
たいてい「このくるみ割り人形にはくるみを割れません。無理に使用すると壊れます」とただし書きがついている。
割れない、くるみ割り人形。
元々鬱憤晴らしのために備わっていた「くるみ割り」機能が必要なくなった、と考えれば、それは喜ばしいことなのかもしれない。
たとえくるみを割れなくても、「くるみ割り人形」としてその存在を認められているのだから。
余談だが、夢見りあむのソロ曲「OTAHEN アンセム」に、「くるみ割り人形」のモチーフが使われていることはご存じの方も多いだろう。
「人生イージーモード」のパートで流れる花のワルツのメロディがそうだが、歌詞も、「現実と夢」や「他者からの承認」をテーマに抱えた夢見りあむと、「夢か現実かはっきりしない」という二面性や、「決められたことしかできない、決められたことすらできない、からのヒーロー化)」という不完全性、未来への希望などを抱えたくるみ割り人形がシンクロしているようで、そうした側面から歌を解釈するのもたいへん興味深い。
「夢から今 目覚めたくない」
「夢は夢で終わってくれ」
「夢は夢で終わらせない」
さて、以上を踏まえて、綾瀬穂乃香が、満を持してくるみ割り人形に扮したことの意味を、今一度考えてみてほしい。
幼い頃に、プリマに憧れ、あのようになりたいと、
青春のすべてを踊りに捧げてきた穂乃香。
肉体的には人並み外れて器用でも、精神面では愚直・不器用な穂乃香は、いつしか楽しむことも、休むことも、目標を目指す情熱すらも忘れて、ただ、機械的に日々のレッスンだけを繰り返していた。
そんな彼女が、アイドルという違う世界へ飛び込み、自分をあらためて認識し、「自己紹介」の中で自身を喩えたものが、
「哀しいくるみ割り人形」であった。(メモリアルコミュ2)
そんな彼女が、今、
とびきりの笑顔で、くるみ割り人形の兵隊を演じる。
その意味をここで、筆者が、これ以上子細に語ることはもはや無粋だろう。
あとは、読者諸兄にお任せすることとしよう。
見て下さい、自然と体が動き出すんです!
まるで心と体が1つになったみたいに…!
こんなこと初めてです…。
ねえ、プロデューサー…
これが本当のアイドルなんですか…?