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クリストフ・ルメール 2

ルメールというブランドのえげつない格好良さについて、もう少し書きたい。ブランドの基本的な紹介や解説は以前別記事にまとめている。

先日、LEMAIREはパリメンズファッションウィーク期間中に2024年春夏のコレクションを発表した。そこで際立ったのは、流し書き4でも触れた、このブランドのルードさである。兼ねてより思っているが、LEMAIREはオーラリーやザロウではなくヤマモトヨウジだ。彼らが作るのは、クリーンで完璧なだけの洋服ではない。むしろ、無礼さ・アロガンスが表面的なエレガンスと表裏一体になることで、このブランドの洋服には個人のストーリーが上書きされていくための余白が残されている。

一般的に洋服を身に着けるという行為を考えるとき、2つ構成要素があると思っている。身に着ける本人の現状の人間像(A)と、服を身につけることでその人が表現したい人間像(B)である。僕は、以前、AとBは同じでも違っても良い、ただしAとBがかけ離れている場合、Bを目指す努力をしている服装がその人に似合っている感じがする、という文章を書いた。

ではルメールを着た場合だとどうなるのか。
先述の通り、ルメールの洋服は二面的である。表面的なエレガントさと、内面に秘めるルードさが表裏一体になってリアルクローズの体を成している。
ルメールの洋服を着ている人を見ても、その人にとってのBが表面にあるエレガンスなのか内面の無礼さなのかがわからない。見た人は、この人はどっちなのか?と迷うことになる。結局、話を聞いて、アウトフィットじゃない部分で判断することになる。ルメールの洋服がその人の「ぱっと見の人間性」に余白を残し、出会った人に付け入る隙を与える。だからルメールの洋服には個人のストーリーが乗っかる。ブランドの掲げる世界観ではなく、着る個人が何を語り、何をするかがより決定的になる。

このように二面性を洋服の上で表現することで、「揺らぎ」を生み出して洋服そのものに断定的に語らせすぎないようにしているブランドというのは他にもあるとは思っている。何もルメールだけではない。だけど、ルメールの大きな特徴はそこにあると思っている。

直近の2024年春夏コレクションを見ても、やはりこのルードさ、不完全さへの余白が残されているように感じた。

Vogueのレビューを見ると、以下のようにまとめられている。会場は雨の中戸口を解放して行われ、「風通し」が一つテーマになっている。インスピレーション源はデザイナー夫妻が旅をした経験であり、ベトナムのストリートウェアのような表現。軽い洋服を多数レイヤーする普遍的なスタイル。Quiet Luxuryの筆頭株でありながら、ストリートウェアであることをしっかり主張している。

そう、ルメールはストリートウェアなのである。ザロウのように、移動は黒塗りの車で、街を歩くのは車から降りてビルのエントランスに入るまで、といったようなクリーンすぎるエリート都会人に似合うようには作られていない。ドレープを作り、それがぐしゃぐしゃになっても気にもかけず、タバコの吸い殻や匂いがついてもそれが味になるような服。ストリートウェアを作っているのがこのブランドだと思う。

LEMAIREはヤマモトヨウジだ。揺らいでいる。
タバコの煙のように。


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