いざ、というとき助けてくれる人より、大切な人
ここ数年、ネットでのうすいつながりへのアンチテーゼとして、
という問いが、そこかしこで投げかけられている。
で、「いざというとき助けてくれる人を見つけましょう」とか、
「いざというときに助け合える仲間を作ろう」とかいう
流れに進むんだけど、それって可能なんだろうか?
と、思う。
趣味のサークル、同じ使命感であつまるボランティア、地域を支え合う自治会。先祖から引き継いだ血を守ろうという親戚。
どんなあつまりであれ、そこには共通の価値観が横たわっているんだけど、
その価値観が、「いざというときに助けてくれる人」という集団は、価値観としてどれほど強いつながりがあるのだろうか?
あらゆる集団は、お互いではなく、共通の価値観を一緒に見ている、つまり価値観をかすがいとして結びつき、そこでの共通の経験を通して、おたがいのつながりをはぐくんでいく。
はじめから、お互いを見つめているのは恋人同士くらいのものだけど、「自分を愛してくれる人」を求め合う恋人同士のいく先は、ご想像の通りだ。
さいきん特に思うんだけど、いざというとき人に助けてもらえた経験の有無を問わず、いざというときに助けを求められると、なんともいえない感謝の気持ちに包まれる。
自分が、自分の弱さをさらけだすに足ると信頼されている証だからだ。
もちろん、それに常に応えられる状態に自分があるとは限らない。
戦争や貧困の解決のように、根本的には何もしてあげられないことばかりだ。
でも、自分にできることが見つかったときのよろこびは、それだけに何ものにもかえがたい。
「いざというときに助けてくれる人」
は、いたらラッキーだけど、いなければ自分が死ぬだけだ。死ぬならその先はないのだから、うれしいもかなしいもないし、それで火事場の馬鹿力で自力で乗り切るなら、むしろそこに追い詰めてくれたことに、「遠くから」感謝することになるだろう)。
一方で、
「いざというときに助けられる人」
は、人生のよろこびを与えてくれる人だ。非力な自分でも、何かをしてあげられて、しかもそれが実際にその人の役に立てる関係性。
この、「助けられる」には、喜んで自分から助けたいと思える、という内発的な部分も含めて言っている。
その部分の誤解を避けるなら、こう言い換えてもいいと思う。
「いざというときに助けを求めてくれて、自分も助けたいと思える人」
ちょっと冗長になっちゃうけど、それはとても稀有で、大切なものだ。
つながりの質が変容していく時代。
探すなら、わたしは断然コチラだと思うし、いざというとき相手が求めてくれればそれで成立する相手なら、結構既にいると思うんだけど、どうだろ?
※なんかスッキリしないなあ…と、書いた後も少し考えていたら、この「いざというときに助けてくれる人」って、「いざというときに助けを『求められる』人」を指しているのだとすると、自分は大きな読み違えをしているような気がしてきた。
つまり、わたしがされて感謝を感じる行為、つまり「弱さをさらけ出せる」ほど信頼できる相手がいない、ということが「助けてくれる人」を探せという本質なのだとしたら…?
自分の弱さを認められないこと、弱さをさらけ出せるほど人を信頼できないことが問題になるので、全然違う話だよね。
もうすこし考えてみようと思います…!