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マーケティングとブランディングの教育力

大学時代、就職したい業界のひとつが、広告業だった。

そのころは、人の心を絵や写真、言葉の組み合わせを、キャッチコピーやCMのような短い構成のなかにメッセージを込めることに表現行為としてのおもいしろさを感じていた。

結局どこも受からなかったので、その道に進むことはなかったけれど、kundle ultimatedなどで本を色々と手軽に乱読できるようになってから、

マーケティング、ブランディングなど、広告関連の本を読むようになった。

かつて興味があった世界。

けれど、あれから10年以上の時間が経った今、あらためて広告業が何をしているのかを知ると、

「消費者ニーズに応える」「顧客満足」のような、一見「奉仕」的なニュアンスすら感じさせるミッションを達成させる手段が、

「心理操作」

だった。

ということに気がついて、恐ろしくなってしまった。

もちろん、商売をする以上、何を自分が提供していて、どのように役に立つのかを必要としている可能性が高いところに届けるための努力は必要だ。

けれども、あたかもそれがなければ不完全であるかのように「教育」するために、

不安を煽ったり、人に勝たなければならないかのように思わせたり、定義の曖昧な成功や幸福、夢、あるいは特定の身体的な美が絶対的に人生に必要なものかのように演出することに対して、

それって、顧客の人生に踏み込みすぎじゃないか?

という倫理的な自問自答がまったくないのが怖かった。

これ、現場の人たちは、どう捉えているんだろうか?

依存傾向が見られる、ロイヤリティーが高すぎる優良顧客について、どんな想いを抱いているんだろうか?

いま、社会のルールには他人の思想や価値観を操作する行為について、罰則がない。

けれども、うぶな個人の「自由意志」が「無限の心理操作(洗脳)可能性」として利用されていることは、なんとなく気づいているのではないだろうか?

自分がされていやなことは、したくない。

そのシンプルな感性が生きているなら、罰則がないなら「してよい」と言われても、できる気がしない。

ああ、なんかこういう話、するのもしんどいけど、子どもがどんどん消費者としての自由意志を発揮できる年齢に近づくほどに、目を背けられないって思う。

顧客がその場でよろこんでいたら、それだけで本当にしていいことだって、言えるのかな…?

これがなきゃダメなんだ、と思わされるだけ思わされて、「でも買えない」という人が抱えた自己欠損感はどこにいくのかな…?

こんなにも十分豊かなのに、「自分は足りない」と「教育」し続けているのは誰なのか。誰も特定できないけど、誰もが他人事じゃないと感じて、広告を見ると、ときどきしんどい。

自分の書く文章をきっかけに、あらゆる物や事と交換できる道具が動くのって、なんでこんなに感動するのだろう。その数字より、そのこと自体に、心が震えます。