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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと考えるクリエイティビティ

こんにちは。
最近本を読むことが、生活の中でベスト3くらいに入ってる頻度になったイリグチリョウです。

なんかまた、仰々しいタイトルだな~と自分でも思います。「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」って誰なんや、みたいな方の為にまずは、軽く解説していきます。

「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」はオーストリア出身の哲学者で、第一次世界大戦及び、第二次世界大戦が、終わるくらいまで生きており、代表的な著書に「論理哲学論考」がある方です。

哲学?なにそれ、おいしいの?

実際のところ哲学って、あんまり実生活に関係ないようなあるような、くわえてクリエイティビティに関係あるのか、正直、わかりません。と思う人に向けて軽くですが、論じてみましょう。

哲学とは、英語で「philosophy」と言って、原理的には、「愛知」を意味する学問であり~

なんか、堅苦しいですね。もう少し簡単に説明すると、「知識欲」に根ざした根っこのような学問です。大昔は、知的探究活動、いわいる研究だったり学問全般に従事する人のことを「哲学者」といってみたり、近代では人文学の人分野として、問題の発見や、色々な概念の明晰化、命題の整理など多種多様な命題に対して、検討する分野とされています。

「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前向きにしか生きられない」

Soren Kierkegaard(セーレン・キルケゴール)

最近だと、結構自己啓発に使われることも多くこんな言葉も有名ですよね。

本題の「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」と考える「クリエイティビティ」

さらっと、哲学とはどんなものか説明したところで、「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」がどんなことを提唱したのか、についてみていきましょう。

きみがこれからも今までのように生きていくならば、世界もまた今までのようでしかないだろう。 けれども、きみが今後の生き方をなんとか変えていくならば、それにつれて世界もまた別の新しい顔を見せてくれるだろうし、世界はさらに広がっていくだろう。 きみと世界は別個に存在するわけではない。また、すでにある固まった世界の片隅にきみが置かれているわけでもない。きみ自身がきみの世界だ。そして、きみはきみの世界で生きている。だから、きみの生き方できみの世界はいくらでもよくなっていくのだ。実は、きみ自身が一つの小宇宙なのだ。

論理哲学論考より

とか言ってみちゃったりしています。すごく懐が深いというか、俯瞰して世界を見ているような感じがしますよね。

さらには、

「言語で表現できることについては、一切を明確に語ることができる。言語で表現できないことについては、一切を沈黙しなければならない」

論理哲学論考より

言語が論理的に表現できる内容の範囲内でのみ意味を持ち、それらを超えたものです。例えば、倫理や美学、宗教的な問題は言語を通じて適切に扱うことができないと考えました。

例えば、科学的な事実「水は0度で凍る」は、言語を使って正確に伝えることができます。これは論理的に表現可能な内容です。一方で、「正義とは何か?」や「美しいものとは何か?」のような質問は、人によって感じ方が異なるため、言語で一つの正確な答えを出すのが非常に難しくこれらの概念は、個々人の内面的な体験や価値観に深く根ざしているため、全ての人に共通の明確な定義を与えることができない。この出来ない領域については一人一人が自分で考え理解していく。と理解しています。

ようやく、クリエイティビティの話に移るのですが、頻繁とまでは言わずとも認識の齟齬があったり、大衆それぞれの感覚に、フィットさせて利を得たり、なにかと、非言語的なことを扱うことが多いクリエイティブな世界があるじゃないですか、

もう言語的にされても、明示されてもわからん。概念的すぎる。そんなこと、多くない?そんなことない?とか思ってる人に向けて少しだけ、語らせてください。

今回お伝えしてきたのは、「考え方」でしたよね。人の考え方なんて「十人十色」「千差万別」なのです。

色々日々大変ですよね。その大変を、そんなもんだろうと、受け止められるようになるために。今回このトピックを取り上げたといっても過言ではないです。

さぁ、この世界をどう生きていくのか、どう考えていくのかという大きな話は置いといて、「千差万別」「十人十色」な感覚が混在する世界において、どうしていくか、「対話」「話し合い」「すり合わせ」で諦めず深めていく。ということが、私なりには、大事だと考えます。

なぜ、諦めないか、それは明確な定義や答えがないからに尽きると思います。

なんか文系の世界線ですよね。数学のように、答えが一つになるものと違って、答えは複数です。正義があっても、絶対的な悪は定義によるもので、あくまでも定義の前に存在するもののような気がします。

この記事が投稿されるのは、水曜日、世間的に中日、後半なにかと乗り切っていきましょう。

Ps.
なんか最近無くしたはずのものが、ふと、降ってくるような感じで自分のもとに帰ってくる毎日です。それが吉とでるか、凶とでるか…そんな内面的な深層のお話は次回以降にでも。
深淵を覗けば、深淵はこちらを見ている
なんなら目を合わせて、睨み返すくらいの気持ちでありたいもんですね。
思い浮かんだことを書いた感じでした。
「哲学」を社会の考え方として学ぶと楽しいかもしれないですよ。って、それくらいのことと読んでいただけたら。

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