メメント・スクール:記憶の迷宮
黒い霧の中から、カナミは目を覚ました。硬い椅子に座り、彼女の目の前にはぼやけた光が揺らめいている。ふと気づくと、彼女は教室らしき場所にいた。古びた机と椅子が整然と並び、窓からは見知らぬ灰色の空が広がっている。
「ここはどこ……?」
声を出そうとした瞬間、後ろのドアが軋む音を立てて開いた。
「起きたか?」
低い声に振り返ると、スーツを着た初老の男が立っていた。リクト・オード教授。白髪交じりの短髪と深い皺のある顔が、妙に鋭い印象を与える。
「君は、ここに選ばれてきた生徒の一人だ。名前は覚えているな?」
「……カナミ。」
とっさに答えたが、それ以外のことが頭の中に浮かばない。自分が誰なのか、なぜここにいるのか、何一つ思い出せなかった。
リクト教授は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「名前を覚えているなら、幸運だ。これから君は、『記憶パズル』を解かなければならない。」
そう言うと、彼は机の上に薄い透明なデバイスを置いた。形状は平べったいが、手に取ると妙にひんやりとしている。デバイスの表面には、奇妙な模様が浮かび上がっていた。
「これが君のパズルだ。これを解き進めることで、失った記憶が戻るだろう。ただし、失敗すれば罰が待っている。」
「罰?」カナミは言葉を飲み込むように尋ねる。
「そのときが来ればわかる。」
リクト教授はそう告げると、教室を後にした。残されたカナミは、戸惑いながらもデバイスを手に取った。
デバイスに触れると、淡い光が教室中に広がった。その光の中で、声が響く。
「最初の課題を提示します。」
不思議なことに、その声はカナミ自身の声だった。
「子供の頃に最も大切だった人は誰ですか?」
瞬間、カナミの脳裏に霧のような映像がちらつく。そこには、小さな公園とブランコ、そして誰かと一緒に笑っている自分がいる。しかし、その「誰か」の顔は霞んで見えない。
「これを思い出せっていうの?」
デバイスには、いくつかの選択肢が表示されていた。
父
母
兄
誰かの名前(不明)
カナミは選択肢を見つめたが、どれも腑に落ちない。何も選べないまま時間だけが過ぎていく。そのとき、突然、部屋全体が赤い警告音で満たされた。
「時間切れの警告。罰が発動します。」
カナミが何か言う間もなく、強烈な痛みが頭を貫いた。記憶の断片が奪われるような感覚――まるで自分が空っぽになるようだった。
「大丈夫?」
声に顔を上げると、クラスメートらしき少年が隣に立っていた。短い茶色の髪とやや大きめの黒縁眼鏡が特徴の少年だった。
「俺はレン。君の名前は……カナミだよね?」
カナミは、ぼんやりとしたまま頷く。
「君もパズルに失敗したの?」と尋ねるレンに、カナミは小さく「うん」と答えた。
「ここじゃよくあることだよ。だけど、失敗を繰り返すとどんどん記憶が失われていく。だから、次は気をつけなよ。」
レンの優しい声は、どこか嘘っぽく感じられた。しかし、カナミはそれを言葉にする気力もなかった。
その日の午後、生徒たちは初めての共同課題に挑むことになった。教室の中央には、錆びついた金庫が置かれていた。金庫には、6桁の暗証番号が必要だと表示されている。
「この番号を解き明かすには、全員の記憶パズルを一段階進める必要がある。」
リクト教授の指示が響く中、クラスメートたちはそれぞれのデバイスを取り出した。
だが、誰もが同時に気づいていた。
「失敗すれば全員が罰を受ける。」
カナミは自分のパズルを再び起動させた。
「次の課題を提示します。」
表示されたのは、家族らしき人物の顔写真。だが、どれもぼんやりとしていて特定できない。
「この中から、実在する人物を選んでください。」
焦りが募る中、カナミは目を閉じて記憶の奥を探ろうとした。そのとき、かすかに聞こえる声――
「選ぶな。」
「何?」カナミは反射的に声を出したが、誰も反応しない。教室は静まり返り、他の生徒たちはそれぞれのデバイスに集中している。
「選ぶな。罠だ。」
その声が自分の記憶の一部であることに気づいたとき、カナミの心は大きく揺れ動いた。何かがこのゲームには隠されている。自分がただの参加者ではない――もっと重要な役割を持っているのではないか。
カナミの脳裏に響く「選ぶな」という声。誰の声かも、なぜそれが自分に警告をしているのかもわからない。だが、その声に従うべきだという妙な確信があった。
彼女は手を止めた。デバイスの画面には選択肢が並んでいるが、どれにも触れない。教室の空気が重く、焦燥感が満ちる中、隣の席のレンが小声で囁く。
「カナミ、早くしないと時間切れになるよ。」
「……大丈夫。少し待って。」
レンは少し驚いたように眉を上げたが、それ以上何も言わなかった。周りを見渡すと、他の生徒たちはそれぞれの課題に夢中で、カナミの動きを気にしていないようだった。だが、一人だけ彼女の行動をじっと観察している人物がいた。
アキラ――
クラスで最も冷静で、どこか近寄りがたい雰囲気の少年。彼の鋭い目がカナミの手元のデバイスを注視している。
「何をしている?」
アキラの声が静寂を破った。教室の全員が顔を上げ、カナミに視線を向ける。
「選択をしないと、失敗する。」
その言葉は事実だった。だが、カナミはわずかな沈黙の後に口を開く。
「この選択は罠だと思う。」
クラスメートたちはざわめき始めた。レンが不安そうにカナミの腕を掴む。
「罠ってどういうこと? 僕たちはこの課題をクリアしないと、罰を受けるんだよ!」
カナミは、どこからか湧き上がる確信に従い続ける。
「この選択肢は、本当の記憶を取り戻すためのものじゃない……ただの偽物だ。」
「証拠は?」
アキラが冷静な声で問い詰める。
カナミは言葉を探すが、記憶が曖昧で具体的な説明はできない。ただ、その場の直感に頼るしかなかった。
「私にはわかる。これは、私たちの記憶を操作するための仕掛け……誰かがそれを利用している。」
その瞬間、教室の天井から低い音が鳴り響いた。警告音だ。
「残り10秒で選択しない場合、全員に罰が与えられます。」
カナミはデバイスを握りしめる。選ぶべきか、選ばざるべきか――全員の視線が彼女に集中する中、次の言葉を口にする。
「選ばない。」
「何を言ってるんだ!」
怒りの声が飛び交う中、アキラだけは沈黙を保っていた。
カナミが選択しないままカウントダウンが0を迎える。警告音が途切れ、一瞬の静寂が訪れた。
突然、教室全体が暗転した。
カナミは目を閉じ、次の瞬間にはどこか別の場所に立っていた。白い光が差し込む広い部屋。壁には奇妙な数字と記号がびっしりと刻まれている。
彼女の目の前に浮かび上がるデバイスの画面には、新たなメッセージが表示されていた。
「ルールを破った者にだけ与えられる記憶断片。」
画面には映像が流れ始めた。そこには、自分とは違う視点――まるで誰か他人の目を通して見た光景が広がっていた。
映像の内容
映像の中で、カナミに似た少女が巨大なモニターの前に立っている。彼女は白衣を着ており、複雑な装置を操作しているようだった。
「これでいい……全員が選ばれた。記憶を消去し、再教育のプログラムを始める。」
彼女の声は、まぎれもなくカナミのものだった。
「この計画が成功すれば、私たちの未来は救われる。」
映像が途切れると同時に、カナミは冷たい汗を流しながらその場に立ち尽くしていた。今の映像は何だったのか? 自分が何者なのか、そしてこの学校の目的とは何なのか――わからないことだらけだ。
「見つけたぞ。」
背後からアキラの声が響く。振り返ると、彼もまたこの白い部屋に立っていた。
「君が、このゲームの正体だな。」
アキラの目は鋭く、彼もまた何かを知っているようだった。
「私が……正体?」
カナミは震える声で尋ねる。
アキラはゆっくりと頷いた。
「俺も同じような映像を見たことがある。お前は、この『メメント・スクール』の設計者だ。お前がこのゲームを作り、俺たちをここに閉じ込めた。」
カナミはアキラの言葉に目を見開いた。
「私が、このゲームの設計者? そんなはずない……!」
頭を抱えるカナミの脳裏に、断片的な記憶が再びよぎる。だが、それは不確かで、どれも実感を伴わない。ただの幻のようだった。
アキラは一歩前に進み、カナミを見下ろすように言う。
「お前が覚えていなくても、証拠は揃っている。お前がこの記憶改ざんシステムを開発し、このゲームを作った張本人だ。」
「待って……! どうしてそんなことを言い切れるの? 私だって何も覚えていないのに!」
カナミは声を張り上げたが、アキラの視線は揺るがなかった。
「俺の記憶も断片的にしか戻っていない。それでも確信している。お前は自分自身の記憶すら偽装して、この計画の核心から逃れようとしたんだ。」
カナミは息を呑んだ。
「じゃあ、私は……何のためにこんなことを?」
アキラは一瞬口を閉ざし、目を伏せた。教室で見せていた冷静さとは異なり、彼の表情にわずかな迷いが見える。
「お前がそうした理由は……まだ完全には思い出せない。ただ、一つだけ言えるのは、このゲームは単なる教育施設ではないということだ。」
カナミは彼の言葉に耳を傾けながら、ふと自分の手のひらに触れたデバイスに目を向けた。その画面には、先ほどのメッセージに続いて新たな文字が浮かび上がっていた。
「出口を探せ。そこに真実がある。」
「出口……?」カナミが呟くと、アキラが頷いた。
「この『メメント・スクール』には出口があるらしい。そして、そこに行けば全てが明らかになると言われている。」
「言われている?」
「過去に同じようなパズルを解いた生徒たちが話していた。だが、出口にたどり着いた者は誰もいない。理由は……裏切り者がいるからだ。」
その言葉にカナミの胸がざわつく。裏切り者。それは自分のことを指しているのか、それとも……。
突然、白い部屋の壁に裂け目が走った。
耳障りな機械音とともに、その裂け目が光を放つ。アキラが警戒するように立ち上がる。
「これは何だ?」
カナミも思わず後ずさる。だが、裂け目の奥から聞こえる声が二人を凍りつかせた。
「出口へようこそ。」
その声は――リクト教授のものだった。
新たな展開
光が消えると、二人は白い部屋ではなく、広大なホールのような場所に立っていた。高い天井、無数のモニターが壁を覆い、そこには様々な生徒たちの記憶の断片が映し出されている。
「ここは……?」
カナミが問いかけると、ホールの中央に立つリクト教授がゆっくりと振り返る。
「ここが『出口』だよ。君たちがたどり着きたかった場所だ。」
教授は冷ややかな笑みを浮かべ、手を広げた。
「カナミ、ようやく君も戻ってきたな。このゲームの責任者として、最後の課題を見届けてもらう。」
「責任者って……!」カナミは叫ぶように問いかける。「私は一体何者なんですか? なぜこのゲームを作ったと言われているの?」
教授は軽く肩をすくめた。
「君が忘れたのなら教えよう。この『メメント・スクール』は、かつて君が提案した計画だよ。記憶を操作し、人間の意識を教育することで未来を変えようとした。だが、問題が起きた。」
「問題?」
「君自身が、プログラムに自分を組み込んでしまったことだ。」
カナミの頭が一気に混乱する。教授は構わず話を続ける。
「君は最初から、このゲームの全てを知っている。だが、なぜかその記憶を封じ、自分を参加者の一人として登録した。なぜそんなことをしたのか……それは君自身が思い出さなければならない。」
最後の課題
教授はモニターに手をかざすと、ホール全体が震えた。無数のデバイスが宙に浮かび、カナミとアキラの前に飛び交う。
「これが君たちに与えられる最後の課題だ。」
モニターに表示された文字が目に飛び込む。
「真実を思い出し、選べ。記憶を完全に取り戻すか、それとも消去するか。」
アキラが苦々しい顔でモニターを睨む。
「記憶を消去? 全員の記憶をか?」
教授は微笑むだけで答えない。だが、カナミの心には薄々理解が生まれていた。
「私がこの選択を作ったのね……。このゲームの結末を決めるために。」
教授は静かに頷く。
「そうだ。そして、選択するのは君だ。全員の記憶を戻し、この学校の真実を明かすか。それとも全てをリセットし、再び無垢な状態で始めるか。」
カナミは深く息を吸い込んだ。アキラが横で言葉を発する。
「お前が何を選ぶにせよ、俺はそれを受け入れる。だが、覚えておけ――記憶が戻れば、お前は元の自分に戻ることになる。その覚悟はあるのか?」
カナミはアキラを見つめた。
目の前のモニターに浮かぶ二つの選択肢。
記憶を取り戻し、真実を明かす。
記憶を消去し、全てをリセットする。
震える指がデバイスの画面に触れる――。
カナミの指がデバイスに触れた瞬間、教室全体が光に包まれた。選択肢はただ一つ。
「記憶を取り戻す」
彼女の中で何かが弾ける音がした。目の前のモニターが激しく揺れ、無数の映像が次々と切り替わる。その映像は、カナミ自身の記憶だった。
記憶の回復
ある研究所の中、白衣を着たカナミが大勢の科学者たちを前に立っている。
「このシステムを完成させれば、人類は記憶の限界を超えることができる。教育、犯罪抑制、そして社会秩序の再構築……すべては私たちの手に委ねられるの。」
その目は強い決意に満ちていた。しかし、次の瞬間、記憶の映像が切り替わり、カナミは実験台に座っている自分を見る。
「なぜ私がこれを……?」
実験室の中で、別の研究者が彼女に問いかけていた。
「このシステムは危険だ。人間の意識を操作しすぎる。君自身が試験体になるなんて狂気の沙汰だ。」
しかし、カナミは静かに首を振った。
「このプログラムを成功させるには、私自身がその中で真実を見つけなければならない。システムが暴走した場合、全てをリセットできるようにしておいた。」
映像が再び切り替わる。今度は、リクト教授が現れる。彼は険しい顔でモニターを見つめていた。
「彼女は成功するのか?」
「それはわかりません。ただ、彼女がすべてを思い出すことが鍵です。」
その言葉の意味がようやくカナミに理解できた。
ホールに戻る
目を開けると、カナミは再びホールに立っていた。リクト教授がゆっくりと歩み寄ってくる。
「思い出したようだな。」
カナミは震える声で答えた。
「私は、この学校を作った……。そして、生徒たちの記憶を消してこのプログラムに閉じ込めた……すべて、人類の未来を変えるために。」
「その通りだ。」
教授は冷たく微笑んだ。
「だが、君が記憶を取り戻した今、このプログラムは終了する。」
突然、モニターに映し出されていたすべての映像が一斉に停止し、機械の轟音が響き渡る。ホール全体が揺れ始めた。
「これで終わりなのか?」
アキラが叫ぶ。
カナミはデバイスを握りしめ、全員に向き直った。
「いいえ、終わりじゃない。このゲームの真実を、私たち全員で見届ける。」
彼女がそう言った瞬間、教室の壁が崩れ、外の世界が姿を現した。
真実の外の世界
カナミたちは外に出た。そこには想像を絶する光景が広がっていた。荒廃した都市、崩れ落ちたビル、そして灰色の空――世界は完全に廃れていた。
「これが……私たちが守ろうとした未来?」
レンが呆然とつぶやく。
カナミは立ち尽くしながらも、ふとあることに気づいた。この世界は廃れているように見えるが、人々の記憶を改ざんして操るような技術が広まれば、もっと深刻なことが起きていたかもしれない。
「私たちは間違えたのかもしれない。でも、今ならやり直せる。」
彼女は静かに言った。
終わりと始まり
物語は、カナミが新たな未来の可能性を信じ、荒廃した世界の中で生きる道を見つける決意を示しながら幕を閉じる。彼女の選択によって、記憶と意識を取り戻した仲間たちとともに、新たな世界を築く旅が始まるのだ――。
《完》