感情を食べるモンスター【短編小説】
影喰いの獣〜心の深淵に棲む者〜
闇との遭遇
蒸し暑い夏の夜、アキラはまた一つ、長い一日を終えた。
心の中には、いつものように重苦しい感覚が広がっている。
職場でのストレス、誰にも言えない孤独、そして拭い去れない後悔。
それらが絡み合い、彼の心をじわじわと蝕んでいた。
その夜、アキラはベッドに横たわり、天井を見つめた。
けれど、なかなか眠りにつけない。
静寂の中で、彼は自分がどれだけ孤独なのかを改めて思い知らされる。
他人に感情を打ち明けることができず、ただ日々をやり過ごすことに慣れてしまった。
やがて、疲労が彼の意識を引きずり込むようにして、浅い眠りに落ちた。
だがその瞬間、暗闇の中で何かが蠢く気配を感じた。
夢の中で、アキラは薄暗い霧の立ち込める、見知らぬ場所に立っていた。
足元には黒い影が広がり、空気は冷たく重い。
不意に、霧の中から何かが現れた。
それは形のない、ただの影のような存在。
だが、赤く光る目だけがぼんやりと浮かび上がっていた。
アキラは言い知れぬ恐怖に包まれ、体が動かなくなった。
その存在は、彼の心に直接語りかけてくる。
「私は影喰い、お前の負の感情を喰らう者だ」
低く、重い声がアキラの心に響いた。
影はアキラの不安に触れるように近づき、それを吸い取っていく。
瞬く間に、アキラの心に巣食っていた不安や怒りが、影に喰われていった。
目が覚めたとき、アキラは妙な感覚に囚われていた。
心が少し軽くなっている。
だが、それが何を意味するのか、彼は理解できなかった。
ただ一つ確かなことがあった。
あの影喰いは、夢ではなく、現実に存在しているのだ。
共生の始まり
影喰いとの奇妙な共生が始まった。
毎晩、アキラが眠りにつくたびに、影喰いは現れ、彼の心に巣食う負の感情を喰らっていく。
最初のうちは、それがアキラにとって救いのように感じられた。
仕事で上司に叱られても、影喰いがその怒りを吸い取ってくれる。
孤独感に襲われても、影喰いがそれを喰らって消してくれる。
アキラは、感情の重荷から解放され、日々を穏やかに過ごせるようになった。
だが、次第にアキラは異変に気づき始めた。
影喰いが感情を喰らうたびに、彼は徐々に感情を表現することが難しくなっていった。
喜びを感じても、それは薄く、儚いものでしかなく、悲しみもまた、どこか遠くにあるかのように感じられた。
影喰いは成長している。
夜ごとに大きく、恐ろしい姿へと変貌する影喰いを目にするたび、アキラは恐怖に囚われた。
影喰いは、もはや救いではなく、脅威となりつつあったのだ。
感情の飢餓
ある日、アキラは仕事で思いがけない成功を収めた。
同僚たちから称賛の言葉を受け、上司からも高く評価された。
だが、その喜びはすぐに薄れ、冷めた感覚が彼を包んだ。
影喰いが、その喜びさえも喰らったのだ。
アキラは戦慄を覚えた。
影喰いは、ただ負の感情だけではなく、あらゆる感情を喰らい尽くす存在となっていた。
影喰いの飢餓感は日に日に強まっていく。
やがて影喰いは、アキラの感情だけでは飽き足らず、彼の周囲の人々の感情にも手を伸ばし始めた。
まず最初に変化が現れたのは、職場の同僚たちだった。
彼らは次第に無気力になり、仕事への意欲を失っていった。
笑顔が消え、職場の空気が重くなっていく。
アキラはその変化に気づいたが、影喰いが原因であることを認めたくなかった。
しかしある夜、影喰いが夢の中で告げた。
「お前だけでは足りない。他の者の感情も喰らわなければならない」
その言葉がアキラの胸に突き刺さる。
影喰いは、彼だけでなく、周囲の人々までも餌にしているのだ。
ミサキとの再会
そんな中、アキラは幼なじみのミサキと再会した。
ミサキは、かつてのアキラの心の拠り所であり、今でも彼にとって唯一の理解者だった。
彼女の存在は、影喰いが喰らうことのできない温かさをアキラに与えた。
ミサキと過ごす時間は、アキラにとって救いであり、唯一の平穏だった。
しかし、影喰いはその温かな光にすら影を落とし始める。
影喰いがミサキの感情にも手を伸ばしたのだ。
ミサキが次第に疲れた表情を見せるようになり、無気力な言動が増え始めた。
アキラは、影喰いの影響が彼女に及んでいることに気づき、恐怖に駆られた。
ミサキを救わなければ。
アキラは彼女に、影喰いの存在を打ち明けた。
初めは信じてもらえなかったが、次第にミサキもアキラの異常な状態に気づいていたため、彼の言葉を受け入れた。
二人は影喰いを退治する方法を探し始めたが、影喰いは強大で、容易に対処できる存在ではなかった。
影喰いの真実
影喰いを退治する手がかりを探す中で、アキラはある男と出会った。
その男は、かつて影喰いに取り憑かれた「前の宿主」だった。
彼は荒廃した精神を抱えながら、影喰いの真実をアキラに語った。
「影喰いは人の負の感情を糧に成長し、最終的には宿主の精神を完全に支配する。破滅は避けられない」
その男の語る悲惨な運命を前に、アキラは恐怖と絶望に打ちひしがれた。
自分も同じ運命をたどるのではないかという恐怖が、心を締め付ける。
だが、その一方で、アキラは決意を固めた。
自分だけでなく、ミサキまで破滅させるわけにはいかない。
アキラは、影喰いとの最終決戦を決意した。
内なる戦い
影喰いとの決戦の夜が訪れた。
アキラは影喰いを完全に抑え込むため、自らの内面と向き合うことを決意する。
影喰いは彼の心の深淵から現れ、圧倒的な力で襲いかかる。
闇がアキラを取り囲み、過去のトラウマや失敗が次々と甦る。
だが、アキラは逃げなかった。
影喰いがどれだけ強大でも、彼は心の中で決意した。
「感情は抑えるものではない。向き合うべきものだ」
ミサキの言葉が、彼を支えていた。
アキラは過去の苦しみを受け入れ、感情を再び感じることを許した。
彼の心が徐々に開かれ、影喰いの力が弱まっていく。
そして、アキラは影喰いを自分の中に取り込み、制御することに成功した。
影喰いは、もはや恐れるべき存在ではなくなった。
それは彼の一部となり、共に生きていくべき存在となったのだ。
新たな一歩
影喰いとの戦いを終えたアキラは、以前とは異なる自分を感じていた。
感情を抑え込むのではなく、それを受け入れることで得た強さが彼を支えていた。
彼は新たな一歩を踏み出し、ミサキと共に未来に向けて歩み始めた。
影喰いはまだアキラの心の中にいる。
だが、今やそれは彼の一部であり、恐れるべき存在ではない。
アキラは心の中で影喰いと共存しながらも、その力を正しく扱うことを決意した。
二度と自分や他人を傷つけることがないように。
そして、新たな挑戦に向けて歩み出すアキラの姿は、希望に満ちていた。
彼の心には、影喰いを超える強さが、確かに宿っていた。
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