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はじめましてのnote

閲覧用のアカウントと思い、使っていましたが、noteの静寂さは美しく感じて、投稿してみたいと思いました。


まずは自己紹介から
1974年の2月生まれ
幼い頃から不思議な体験をしていたので、何が現実なのかわからないという元々曖昧な頭脳を持ち、不思議な世界に振り回されながら生きてきました。

釈然としない日々を過ごし、自分がどうやら他の人と見えている世界が違うことに気がつきます。その自分の世界と家族や他の人が体験している世界のギャップは甚だ大きく、私は誰の中にいても深い孤独を感じていました。
笑いたい、楽しく過ごしたい、、、

他の人と同じ世界に属していない感覚は、自分がおかしいのか、世界がおかしいのか、わかりませんでした。(普通に考えれは、私がおかしいと直すところですけど、、。)誰にも共有できることはありませんでしたが

『私の生きる場所はここではない、

こんな場所ではないはずだ。』

という、根拠のない確信が自分の中にあったのです。けれど、それもどうしても苦しくなり、10歳のある頃、私は他の人と同じ様になりたいと必死に願いました。


すると、パッと世界は変わりました。

普通の世界になりました。普通に家族や友達と過ごし、遊び、笑います。幼い頃、不思議な世界と繋がっていたことは、ほんとうにすっかり忘れてしまいました。

しかし、次第に何をしても物足りなさを感じます。失ってしまったものを手繰り寄せることのできないもどかしさや悲しみにもがくことになります。

何にもがいているのかもわからない、そんな不確かなものの正体を待っている自分を、どうしたらいいのか、

その時代は16歳のある日まで続きました。その頃、私はこの世界で生きている感覚を失ってしまいました。自分でいることに絶望してしまったのです。表向きは、何かひどく問題のあるような様には見えるような状況ではありませんでした。


まるで、本当の世界を封じられた、映画のマトリックスやトゥルーマンショーのように、表向きの関わりが作られたもののような中にいた感覚、といいましょうか。


ただ、内側には絶望という不確かな感覚があるだけ。どこからそれがくるのかもわからないのです。

自分の部屋で釈然としない時間を過ごしていたふとした瞬間、私は巨大な光に包まれました。その巨大な光の中で今までの絶望を焼き尽くすような歓びに包まれました。


そのほとんどはもう忘れ失った記憶ですが、その瞬間を切り取った写真の様に、脳裏に焼き付けていました。それはどうにも説明できる様なことではなく、、そのとき残ったのは心の中に深く刻まれた慈愛、慈悲。

『私は、私でよかったんだ。私は他の誰かになることはできない、私にしかならないのだから。』

世界は変わりました。世界を作っているのは、見えているものではない。私の内側にある、もう一つの世界だということを思い出しました。

これは、知らせなくては、、、
本当の世界のことを。

それから、私はこの外の世界で同じ体験をした人がいないかと探し始めます。まだ、当時本もそんなには買えないし、ネットで検索することもできません。ましてや、スピリチュアルという言葉は一般的ではありませんでした。

少しづつ、小説の中を探し、宗教、哲学、心理学と探します。私の脳では数学や物理学は難解でしたが、あの光の中では全てを熟知できました。光は巨大な知性でもあったのです。

それと、私自身は、生まれてから一度も宗教に入ったことはありませんが、神聖な何か、を信じていました。

その、巨大な太陽の様な知性は、名もなき私の内側から現れたのでした。

後に、私はこう思ったのです。

全ての人の内側は、それであり、全ての人がとてつもなく偉大な知性であり、慈愛、慈悲の存在なのではないか、と。

そこに出会うために、人は人間をしているのではないか、と。

そして、私はそのことを伝えるために存在しているのではないか。

そしてやっと、言葉でそれを伝えられる時代になったと思います。

16歳からの体験を理解し統合すること道のりは長く、30余年経ってしまいました。

まだまだわからないこともたくさんあるのですが、

この現実世界の中に、全ての人の神聖さと偉大な知性を見いだしたい。

それは、私の夢です。

noteでは、私の統合の物語や、瞑想を通して体験した事などを書いてみたいなと思います。

私の内側の動きは、年号の切り替わりの時期に呼応していることに今、気が付きました。

年号の切り替わりは、集合意識と深い関わりがあるのでしょう。

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