2024.7.2 自信のつけかた
隠しごとがあると、そっちにコストがかかって本気が出せません。
日本には「自己肯定感が低い」ひとが多いイメージがあります。
少なくとも胸をあって「自分は自己肯定感が高いです」なんて言うひとはあまり居ないだろう。
それはなぜか?
義務教育が関係していると思う。
なにも頭ごなしに「義務教育が悪い」という話しがしたい訳ではない。
むしろぼくは賛成派である。
しかし
日本人の多くが主体的に物ごとを行わない原因は、義務教育にあると思う。
理由は、
画一的で、一方的な教育法で、個性を尊重して才能を開花させるものではないからだ。
これは義務教育後にやることであって、それができるよう基礎を固めるという理由も含まれてる。
自分の意見や考えを発表する機会が少ないのだ。
それは学校教育だけでなく、交友関係にも現れている。
0から1を生み出すような遊びではなく、スマホの普及によって、既にある遊びの質を上げるような遊びになっている。
(例をあげたい)
例がないため、これはぼくの完全な予想であるが
学校で定着した「競争に勝ち抜くための教育」が、遊びにも適応される。
SNSでどれだけインプレッションが稼げるかの競争に脳みそが使われる。
他人から習い、他人を真似し、他人に勝とうと動機づけされる。
そんなことが当たり前になれば、もちろん自分の意見は出しにくい。
自分の意見が評価制度に加わらない限り、ゴミにしかならないからだ。
ただ、こういったことが原因で自信が持ちにくいのも事実である。
自信がつく、というのは
自分の素性や意見、考え方など、コピペしたものではないオリジナルなものを表面化したとき
それが他者に受け入れられることで育まれる。
その機会はなんでもいい。
前述の通り、発表することや遊び、告白することでもいいと思う。
現代では、その機会があまりにも少なすぎるのではないか?というのが疑問点である。
しかし
こんなことを言って教育法を変えたいみたいな大きな話ではない。
昔のぼくみたく、
自信がもてなかった、あるいは自信のつけかたが分からなかったひとに伝えたい。
自信のつけかたは必ずあるし、つけれる。
「自分を出してみる」そしてそれを自分→他人→社会に受け入れてもらうことだ。
「そんなこと怖くてできません。」
という声が聞こえてくる。
もちろんそうである。
心理的安全性が保たれてないじょうたいで、未完成な自分をさらけ出すのは、死ににいくようなものである。
じゃあどうしたらいいか?
紙に書く、そして自覚する。
そう、まず自分だけ知ってればいい。
言いたくないこと、認めたくないことを紙に書き出す。
「へー、自分ってそんなこと思ってたんだ」
この程度でいい。
頑張り屋のあなたは無意識のうちに、
「こんな自分ではダメだ。もう少し頑張らなきゃ!」と、焦っているかもしれない。
でも、それは
繰り返すようで申し訳ないが、他人と比べて勝とうとしてる癖が抜けてない証拠なのだ。
別に義務教育を抜けたら勝つ必要などない。
それに勝ったところで、義務教育のときのような報酬は得られない。
それよりも大人になったら、
主体的な行動が求められる。
自由に発想して、世の中に貢献できる大人が求められる。
他人のフリをしていては追いつくことができない。たとえ追いついても代替される。
だからこれからは競争じゃない方法で生きよう。
「自分ってこう思っているんだ。」
というのを表現する場所を徐々に広げていく。
それが最終的に「もっとこうしてみたい」という好奇心に変わってくる。
もうそうなったあなたは過去の自信がない頃から抜け出している。
むしろ自己肯定なんてしてる場合ではない。
自己向上するのだ。