2024.6.13 等身大

みなさんは普段から「等身大」で生きることができているだろうか?

自分をよく魅せるために大きく見せたり、保険をかけるために卑下したりしてないだろうか?

別に「等身大」でしなければならないという訳ではない。

等身大で接することができれば、気持ちいいのだ。


その気持ち良さの正体はなんなんだろうか?


『BLUE GIANT』

ご飯を食べるとき、僕と彼女で映像を観てる。

「ながら食い」が行儀悪いことは承知の上である。それでも止められない。

僕はなるべく早く食べて、食べることと観ることを分けるようにしてる。

だいたいアニメ1話分、20分くらいを毎日進めてる。続きが気になるともう1話観る。

観たあとは、お互いの感想を言い合う。

せっかく同じものなのだから、感想の違いを楽しみたい。



昨日は、彼女が休みだったため食べ終わった後も観てられる余裕があった。

「少し長めのモノを見ようよ」と僕が提案した。

「いいよ」と彼女は即答する。

彼女は基本的に僕の提案には前向きである。



話題になってるアニメを観ようとしていた。

しばらく探した後、目を疑った。

僕が大好きなアニメがあったからだ。

それは、

『BLUE GIANT』だ。

2年前友だちに勧められて、ハマりすぎて最新刊までイッキ読みした。


去年、それが映画になって上映された。


上映されていたことは上映日初日から知っていた。

しかし

あれよあれよと観るタイミングを逃し、結果観れず後悔した。


そのことを彼女に「ブーブー」と言い、困らせた。


それが観れる。


もうワクワクしていた。


評価が悪いことは知っていたが、そんなことでワクワクは抑えきれなかった。

昼ご飯時に半分、夜にもう半分観た。

ボロボロと涙を何度も流した。

雪代の前で始めて披露したとき、『first note』『n.e.w』を聴いたとき、玉田がドラムにハマったとき等

とにかく「成長」が垣間見えたときにボロボロと涙が出た。


彼女は高校生編を知らない。

それでも観た後の感想は「すごい引き込まれるね」と言っていた。

なんだか僕まで嬉しくなった。

まるで自分の作品を褒められてるように、錯覚した。


高校生編(上京する前)を知らなかったから、正直ビミョウかな?と思った。

しかし

彼女にも良さが響いたようだった。


それはきっと物語りの構成からだろう。

主人公の宮本大の葛藤は簡素に、ほとんどが演奏のシーンだった。

原作ファンからはここが叩かれる原因だった。

しかし

『ジャズの良さを伝える』という目的だったら成功だと思った。



原作ファンである僕は最初
「なぜアニメでやらないのだろう?」
と思った。

しかし

今回観て納得できた。


映画の空気感や音響でしか伝え切れないことがあるのだ。

それをスマホでなく、映画館で体感してもらいたかったのであろう。

まるで、

音楽プレーヤーではなく、LIVEに行くような感じで伝えたかったのだ。



それに気づいてからもう一度、映画館で観れなかったことを後悔した。

しかし

その後悔も薄まるくらい充実した内容であった。


「芸術は爆発だ」


最近観たアニメ『ブルーピリオド』から引き続き、「芸術系アニメ」を観ている。

自分のなかで「芸術とは何か」考えるようになった。

『芸術は爆発だ』

かの有名な岡本太郎氏の言葉である。


これを起点にして考えてみた。

「溢れ出るもの」や「破裂」するといったものではなく、要らない情報を削ぎ落としていって、本質の部分を表面化させること。

こう自分のなかで結論づけた。


最初、「破壊と創造」というように「自分の当たり前を捨てて新しいモノに出会う」とした。

新しいモノとはなにか?

全くズレていない、不変かつ真新しい表現。


体→肉体→筋肉→繊維→骨

全部違くて、全部自分である。

本質的なところへアクセスし、そこから肉付けをして『再構築』していく。


これが『芸術』なのではないか?と自分の中で落ち着いた。

これはピカソの絵である。

たまたまTwitter(新X)で廻ってきた画像である。


どれも違ったように見えて、すべて同じ「牛の絵」である。


写実的な表現から最低限伝わるように本質を描く。

リアル→記号へ

小さく持ち運びに便利だ。

爆発して木っ端微塵となり、それでも残ったカタチ

そこが出発点となり、また創りだされる。

こうして意味をつけていく。

感じる→理解できる。


個々人に伝わるように肉付けをする。


この繰り返しが芸術なのである。


映画のはなしに戻ると、


※ネタバレを含む


『JASS』がソーブルーに立つ直前に、雪代が事故に遭う。

ピアノを抜いた、テナーとドラムスのセッションである。

メインは無事に終わり、アンコールへと向かう。

そこへ起死回生で雪代がコンサートホールに姿を現す。

ピアニストにとって命である「右腕」が使えなくなったが、もう一本の腕だけでアンコールに緊急参加する。

数少ない表現方法で、最大限にパフォーマンスをする。


そのときに本質が浮き出ているのではないだろうか。

音の厚みだけではない、表現力。

これだけでもしっかりと観客を沸かせる。

本質をもっていれば伝えられることは可能なのだ。


ピタりとした言葉を扱う




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