緑の種類
「緑って、いろんな色があるよね。昔は気づかなかったけど」
7月初旬、よく晴れた午前11時。地元の有名ラーメン店の整理券を手に、ベンチに腰掛けて開店を待っていると、母がポツリと口にした。スマホをポケットにしまって母の見つめる先に目をやると、田畑と山々が見渡す限り広がっていた。
「ほんとだね。小学生の時は全部同じ緑で塗りつぶしてたけど、今こうして見ると山にはいろんな木があるし、山と田んぼの色も全然違う。なんで気づかなかったんだろうね」
そう言いながら、思う。なんで気づかなかったんだろう。自分が世界を一色で塗りつぶそうとしていたことに。
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今年に入ったころから、会社の成長に伴って業務量が激増していた。
毎日毎日、残業残業。それでも追いつかない分は、休日に出勤して埋め合わせる。出社しない休日は、家から出る元気もなく休息に充てる。
どう考えても、残業前提の仕事配分。やってもやっても、手つかずのタスクは山積み。違和感がないわけではなかった。
でも。
成長企業のWeb部門。少数精鋭。
入社5年目。会社から与えられた仕事くらい、きっちりこなして当たり前。
一応、役職もついた。自分にしかできない業務もたくさんある。
自分がやらなければ。そんなプライドみたいなものが自分を動かしていた。
そんな6月中旬のとある月曜日。始業2時間前に出社する。
人気のないオフィスでPCに電源を入れ、タスク表を開く。
――何から手を付けようか。
――また、終わらないタスクに立ち向かう1週間が始まるんだな。
――今週も、先週以上に頑張らなければ。
――あれ、自分は何のために頑張っているんだっけ…。
そのまま何にも手を付けられずに、1時間が過ぎた。
――あ、自分はもう頑張れないかもしれない。
思った瞬間、自分と仕事を繋ぎとめていた細い細い糸が、ぷつりと切れた。上司に体調不良と伝えて、家に帰った。
それから会社には行けていない。
数日間、頑張れなくなった悔しさと情けなさで涙が込み上げたり、開き直ってゲームに没頭したり、いろんな感情が渦巻いた。
そして1週間が過ぎる頃、中途半端に会社を休んでしまっている状態に後ろめたさもあり、上司と一度話をした。
話の内容は「戻ってきてほしい。どうすればまた頑張れるか一緒に考えよう」。
――頑張らないという選択肢は、無いのか。
早く復帰したいという思いは自分の中から完全になくなり、心身を休めるために実家に帰ることにした。
実家は福島県。勤務先の兵庫県から物理的に距離を取れることも心を軽くしてくれた。実家の母は「ゆっくり休めばいい」と優しく受け入れてくれた。
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実家でのんびりと過ごしながら、有名店のラーメンをすすりながら、考えを整理した。
好きで入った会社だった。理念に、社員に、憧れて入社を決めた。でも、会社の成長速度・業務量に忙殺されるうちに、いつの間にか好きなのかどうかわからなくなっていた。それでも、好きなフリをして働いてきた。盲目的に、今の会社で働き続けることが唯一の選択肢のように錯覚していた。
思い返せば、これまでの人生、ずっとそうだ。地元の(自称)進学校から国立大学に進学し、4年で卒業して就職、一つの会社で働き続けて安定した収入を得ながらそれなりに出世していく…という固定概念に縛られてきた。それが”正解”だと思った。正解至上主義。”不正解”への過度な恐怖心。高学歴の弊害だろうか。
そうやって、世界を固定概念で一色に塗りつぶして、狭い視野で生きてきたのだ。
周りを見渡せば、生き方だって将来の可能性だって無限にあるのに、それらすべてを他人事のように遠ざけてきたのだ。
”正解”のルートを外れかかった今、固定概念に囚われずにもっと自由に生きてみたい、と思えるようになった自分がいる。
この機会に、やりたいことをやろう。行きたい場所に行こう。会いたい人に会いに行こう。これまでの社会人人生では得られなかった経験をしよう。
知識量と経験量は、世界の解像度だ。
未知の出来事に、未知の感情に、未知の人生に出会うたびに、僕の世界は色鮮やかになる。見えなかったものが見えるようになり、見分けられなかった色が区別できるようになる。
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会社には3か月間の休職希望を出した。
3か月後に会社に戻るかどうかは、まだ決めていない。転職をするかもしれないし、なんなら、4年間真面目に働いてきたし、物欲もないおかげで貯金は多少あるので、少しくらい無職になっても構わない。
固定概念でガチガチだった自分に自由を与えたらどんな変化が起こるのか、じっくり試してみる。その過程で起こったこと・感じたことを書き記していこうと思う。
とりあえず手始めに、絵を描いてみたくて24色の色鉛筆とスケッチブックを買った。
アンミカみたいに200種類の白を見分ける自信はないけれど、色鉛筆に入っている4種類の緑くらいは使い分けられるようになれたらいいな。