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#4 経済と文化の接続点【日本共同体に関する卑見】
「流行」と市場原理に付き従う大衆の活動領域は、一見して既に共同体的土壌から乖離しつつあるように思われる。
このような社会のあり方は、海外においてもそう変わらない。
世界はグローバル的な経済体制の下にある。
人々は祖国の国家的理念や固有の文化的価値規範といったものよりも、全世界的な市場原理に基づいて行動する事を要請されているのである。
人々の行動原理は市場原理一辺倒となり、他の価値規範はほとんど忘却されつつある。
世界の人々は自らが立脚している文化共同体に対して、あまりにも無頓着である。
自己の生活が何を土台として成り立っているかの自覚的注意は、今や全く払われない。
この状況を鑑みた時、大衆意志の集合体としての市場原理の結果への追従という行動の選択は、共同体を護ろうとする立場の者には到底受け入れがたいものとなる。
現代社会に文化的な深い思慮の反映を期待することは、現状不可能である。
世界におけるこれら惨々の現状を以て、衆愚の批判材料として消費する事は容易い。
しかし、そのような行為は単に非生産的である。
この局面において我々が取るべき選択肢は無意味な冷笑ではなく、このような世界に対抗する為の具体的実践でなくてはならない。
我々の生活から疎外された原理に身を任せ、我々自身の存在と我々の信ずる正義の価値的基盤をこのまま破壊させ続けてよいはずがない。
それらを護る為の実践の論理こそが、まず最初に我々の課題となるべきである。
さてこの世界では現状、ありとあらゆるものが経済的な価値基準に対してその評価を委ねている。
非合法な臓器の提供に貞操の売買、その他諸々の非倫理的な金銭のやり取りは、全てそうした拝金主義的な価値規範を下地としてこそ成立している。
現代社会に住まう多くの人々は、そもそも市場価値以外の価値規範を放棄することを望んでいるのだろうか。
私のような古い呪縛のようなナショナリズムに捕らわれた人間のみが、貨幣以外の何か他の価値を重んじたがるのだろうか。
私にはそうは思われない。
しかし我々はどのようにして、この資本主義による価値の併呑から自らを解放していくべきだろうか。
例えばその手掛かりとして、人々がもっとも身近に、しかし無自覚に接している生活上の文化はどうか。
今、現代における文化保護の立場を考えたい。
文化の保護者はその対象の有形無形かを問わず、文化財に対して多くの資金を投じてこれを維持管理しようとする。
無論、その内には観光産業への投資を目的としたものもあるだろう。
しかし文化財は本来その性質からいって、投入された額に対して必ずそれ以上の経済的利益が回収し得るという確証のあるようなものではない。
それは奈良や京都の有名どころの寺社仏閣においても然りである。
であるが故にそれらの維持活動は多くの場合、当該の宗教法人の自己財源や信者からの寄付、或いは国家等からの公費によって賄われている。
また或いは、視野を広げて日本という民族共同体の枠組みを考えればどうか。
皇室に対する皇室費の歳出などはその最たる例であると言える。
皇室は、下世話な「経済的利潤」なるものを生み出すためにあるのではない。
ではそれらの維持の為に金銭を投じるという行為は、一体どのような意味を持つのだろうか。
そこでは資金循環の中で可視化される貨幣価値から、不可視的な何か別の価値への変換が行われている。
皇室や一部の寺社仏閣などは、市場原理上における経済的利益を、少なくとも直接的に創出するものではない。
観光業や外交上の権威等は、第一義の問題ではないのである。それはまず文化や信仰に纏わるものである。
にも関わらず、それらの行為に我々日本人の労働、或いはその変換物としての資金が絶えず投入され続けている。
それが現代にまで継続されているというのはどういう事か。
日本の人間集団が近代資本主義世界において経済的価値とは別の価値指標と接続する契機を有し続けているという事に他ならないのではないか。
つまり日本人は非経済的な価値を自らの生活空間の内に認め、無意識のうちにそれを支持しているという事ではないか。
次は逆により身近な要素を考える。
例えば出産や育児、或いは介護はどうであろうか。
確かに現代において、それらは高度に事業化されつつある。
しかし歴史を顧みれば、長らくそれらの任務は身内の者からの無償の労働提供によって達成され続けてきた。
この種の業務に従事し得る労働力が、市場の原理の上においては貨幣に変え得る性質を持っていた事は今日もはや明らかである。
しかし世代の再生産、或いはその他人間の文化的生活の維持に纏わる行為というものは、本来的には貨幣経済の外部に位置付けられているものとしてあり続けてきたのだと評し得る。
逆説的に捉えるのであれば、かつて経済活動の枠外であった部分にまで現代資本主義は侵入してきている。
だがそうした価値規範を許容する土壌が未だ現に存続され、人々の内に共有されているのだとすれば、大衆の嗜好と消費の指標に人間生活の価値規範を丸ごと委ねるが如くの態度は単純に過ぎるものである。
我々は我々自身の実生活の内に、市場原理を至上とする規範以外の価値を未だ持ち続けている。
我々の倫理や信仰、生存や尊厳は交換可能な価値であってはならない。
日本人はその存在と理念の根拠としての日本共同体の土壌にこそ、原点となる価値規範を求める事が出来るのである。