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「無意識Ⅱー泉の章ー」 #1 電車

1992.09.16 wed  6:00am


早く、この時間を抜け出したい。


それは暖かくて、優しくて、まっさらな時間から引っ張り出そうとする、
ふんわりとした眠気の中に飛び込んで来るあの音で始まる。

リリリリリリリリ、リリリリリリリリリリ・・・

頭の上にベルをふたつ並べた丸いプラスチックの物体。
透明のカバー向こうでウサギのミッフィーが無表情にこっちを見てる。
その足元の「6」に短い針
そして長い耳の延長線上の「12」に長い針が重なると、その音は鳴るのだ。

リリリリリリリリリリ、リリリリリリリリリリ・・・

背中にある小ちゃいツマミを下にカチッと下ろさない限り
容赦なく地面を叩く雨のように。

音を頼りに伸ばす片方の手が、毛布から這い出て冷たい空気に触れる。
指先がなかなかそこに届かない。

毎日繰り返す、小さな絶望の瞬間だ。


きっと、隣の部屋では弟がその音で先に目を覚まして苦笑いしてるんだろう。

目覚めの良すぎる彼にはアラームがそもそも必要ない。
なのに毎朝隣の部屋で鳴り止まない「リリリリ」でますます確実に起きられる。

家を出る時刻が私よりも遅いにも関わらず。


「朝弱いのにさー、何で遠い高校通ってんの?姉ちゃん。貴石高校なら自転車で15分だよ。あと30〜40分は眠れるね」

「本当よね。朝強いリューキが東高で、逆に泉が貴石高だったら、お母さん毎朝こんなにヤキモキしなくて済んだだろうな」

朝食の時の会話で、弟と母親から定期的に出てくるお決まりのフレーズ。

「俺、だから今の時間に朝ごはん食べなくても本当は充分間に会うんだよね。でも起きれちゃうし。姉ちゃんの出てく時間に合わせてるようなもんだけど」

「はいはい。ごめんね」

「全然。けど、毎朝大変でしょ。あんなに起きらんなくて」

ご心配をおかけしまして。

ご心配ついでに、もうひとつ気になることがあるのは予測がついている。
せっかく、私のために時間を合わせてもらって食べている朝食を、私がいちばん食べてないじゃないか。という問題。

「泉、今日も食べ進んでないなー。トースト、半分も無理か…目が覚めてないんだからしょうがないか」

ちょっと優しく声をかけてくれる父親。

「それにしてもねー。8枚切りの半分も食べられないなんて、ネズミちゃんみたいねー」

ネズミにトースト食べさせたことあるのか知らないけど、自信満々に例えてくる母親。次に言われることは、もう分かってる。

「泉(イズミ)ちゃんじゃなくて、ネズミちゃんって名前にしたら良かったかしらねー!!」


・・・-_-。


そんな、脳天気な家族の会話を聞きながら、ほとんど言葉を発しないまま、結局食べられたのはトースト4分の1と目玉焼きの白身の端っこだけ。

「行ってきまーす」

「姉ちゃん、これ貰ってもいいの?」
私が「いいよ」という前に、残したおかずのお皿を持ち上げてる弟を横目に
リュックの中身を確認して家を出る。

これが、毎朝訪れる「早く抜け出したい時間」だ。


抜け出した先の世界で、私が最初にすることは、リュックのポケットからイヤフォンを取り出すこと。

家を出る前に確認していたのは、イヤフォンとウォークマン、中には充電池やカセットテープが忘れずにセットされているかどうか。
何故なら、これが私の心臓と血液のようなものだから。

右手に握った小さなリモコンのボタンを押すと、流れてくる音。これが血液。
リュックの中で回り始めたウォークマンが心臓でそれを動かす中のポンプは充電池。今日も一日、止まらずに動いてくれますように。

万が一、充電池が持たなかった時のために外付の乾電池ケースも忘れない。
そして単三電池。


昨日の帰りに寄ったレンタルショップで借りたフリッパーズギターのアルバムが今朝はセットされている。とりあえず、アルバムそのまんま録ったけど今日聴いてみて、良かったら来月ちゃんとCD買って他のアルバムともミックスして編集しようかな。

耳に流れ込んで来る音を聴きながら、いろんな音の繋がりをイメージする。

ひとつ前のアルバムの7番目の曲に今聴いてる曲が続いたら、たぶん景色は石畳の道が伸びるポップな外国の街角〜からの、2年前のあのアーティストのアルバムの4番めの曲を繋げたら、雪が降り出して、キラキラの灯りで照らされて、クリスマスももうすぐ・・・


まだ9月でした。


待てよ。CDの返却日は、明日の木曜日。ということは

あと1日あるから、今日帰ってから再編集する時間もあるのか。
ってことは、行きと帰りの電車で聴き込まなきゃ(歓喜)。


貴石駅でいつもの改札を抜けて、5分後に到着するいつもの電車に乗る。
窓際の席が空いていることを祈りながら。

運良く今日は、入れ替わりで空いた。
迷わず座って、ふーっと息をつく。

ここから5番目の駅に着くまでの約30分が、いちばんの至福の時間かも知れない。


家から遠くて、朝が大変と分かっていても今の高校を選んだのは、この時間があるから。たぶんこの距離が、長ければ長いほど幸せだから。

電車に揺られて、景色が流れていく。
何もない田舎の、どうってことない景色だけれど、聴こえる音が変わるだけで映画の何気ないワンシーンにも見えたりする。
これから起きる未来の序章のようにさえ。

木の葉の色、花が咲いたり散ったりする変化。
道を通る人も車も毎日違う。
そこに重なる、イヤフォンからの音がフィルターをかけた時に浮かぶイメージ。

その中にいる時間が好きなのだ。


だからずっと、東京の大学に進学するのが夢だった。
東京に出れば、もっと沢山の景色を見ながら、もっといろんな音に包まれながら電車に乗ったり、街を歩いたり出来るだろうし。

出逢う人も多彩で、思いもしないような発見があって。
なのに、何故か気持ちが手に取るように分かってしまう、昔から一緒だったような存在が、気が付けばそこにいたりもして。


でも、高校の担任からは
「新葉市の新葉短大なら推薦でほぼ間違いないから、考えてみたら」って。

新葉市まで通うなら、今まで5番目の駅だったのが、9番目の駅まで延びる。
時間も倍近く。

そこは決して悪くないけどな。
ただ、生活が(路線も)今の延長だからなぁー。

短大って、4年制の大学よりもカリキュラム詰まってるって聞くし。
結構朝も早い。高校よりは多少ゆっくりかも知れないけど。

だとしたら、来年以降もミッフィーに大して変わらない時間に起こされて、ダルい朝食シーンも続行か。


迷う。

まだ、親には話してないけど話したら絶対飛びつくもん。

「あら、いいじゃないの。あの短大すごく評判良いし。就職率も高いみたいだし」

「そこに推薦で決まるんなら良いじゃないか。いや〜今まで真面目に勉強してた甲斐があったな。こういうところで楽できるんだから」

とかね。

「4年制の大学行ったってその後どうするの。東京?行ってどうするの。
良いじゃない、地元の短大で。女の子なんだから」

「お父さんも、その方が安心だな。東京に行ってかかる分の家賃とかを考えたら、その分毎月お小遣いとしてあげても良いぞ」

なんてね。

それを振り切って東京に出る程の、立派な理由も
無理して受験して、確実に受かる保証も無いけれど、

無いけれど、


それで私結局、東京に行っていちばん何がしたいんだっけ?



帰りの電車では、もうひとつ昨日借りて録音した矢野顕子のアルバム。

空中に絵を描くように、自由自在に音を操るピアノの音と歌声。
私の憧れ。

朝と同じ景色を逆回しに辿りながら、全く違う場所にいる気がする。
音は、魔法だ。


今日はいろいろ考え事をしてて、駅までの道も遠回りしたから、ウォークマンも長時間フル回転。充電池大丈夫かな。

思った矢先に、3番目の駅あたりで充電池がギブアップ。即座に外付の乾電池ケースを取り付ける。
そこでチェックミスに気づいた。
ケースにセットされた単三電池も前回使った時にだいぶ消耗していたのだ。
スペアの単三電池→なし。

生きた心地がしなかった。
何せ、これは私の心臓と血液だから。

瀕死の(?)状態で、電車が貴石駅に着いた。

仕方ない。駅の売店で単三電池を買うか。
家まで歩いて10分ぐらいだけど、その間「無音」なんて多分無理。


売店の手前で、リュックを開けて左手で中を探る。
財布・・・いつも確かこの奥の方に。 

あれ? 

リュックを下ろして前に持って来て、もう一度中を探る。

そう言えば、今日一日心なしかリュックが軽い感じがしてた。
気のせいだと思ったけど。

その軽さは、財布が消えた分の軽さだった。


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