ねものがたり12 妖刀村正
──原本では「村政」の表記だが、ここでは「村正」で通したい。
言うまでもなく、千子村正の名を継いだ刀工一派による作の総称である。いわゆる刀であれ、槍であれ、「村正の刀」と呼ばれたそれらは、時に珍重され、時に忌み嫌われ、また珍重され……名刀と呼ばれる刀剣には何かしらの伝説めいた由来が付随することも多いが、とりわけ刀剣それそのものの評価の外で語られてきたことが多いものである。
今回紹介するエピソードは決して裏付けある話ではない。現代人の目には風評被害の域から出ないものにも映るだろう。
しかし、いわゆる妖刀村正伝説が信じていた時代の一証言として紹介することにした。
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御当家──というのは、無論、徳川将軍家のことである。
徳川将軍家が村正の刀を用いることを禁じていた、という記事は、古くから同家に仕えた人々の手による「後風土記」や「三河記」にも見えていて、広く人口に膾炙した話である。
とある本にはこんなことが書いてあった、と、こんなふうに聞いたことがある。
曰く、大坂の陣かそれより前の戦か──織田有楽軒長益(有楽斎とも。信長の弟)が、自ら取った首を手に家康の前に参上した。
「手柄を上げたか」
と問う家康に、有楽軒は、
「老人らしからず少々立ち働きました手作りの首にて」
とおどけて見せた。あっぱれなことだ、と家康も満悦だった。
「して、どんな武器で取った首だ。見せてみよ」
と言うので、有楽軒は自分の槍を差し出した。しばらく家康はその槍を矯めつ眇めつしていたが──不意に顔を険しくした。その手から一つ、二つ、赤いものが滴り落ちる。
「──これは村正の刀であろう」
家康はそう言っただけだった。その通りでございます、と有楽軒は答えたが、ふと周囲から「そういえば徳川様は不思議と村正の刀をお持ちでないが……」という声が聞こえた。
有楽軒は即座にその槍を折り捨てた、という。
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村正はそもそも正宗の弟子筋で、美濃に住まいしたという。
たいそうな名工であり、その手による業物も多い。が、乱心者──尋常の精神状態にはなかった、ともいわれている。そのせいかはわからないが、徳川家に連なる人々でなくとも、村正の刀を所持すると不意に怪我をするようなことがあった、という。今も村正の子孫は美濃にあって、少し前までは剃刀など作っていたが、とにかくその刃物での怪我が多いというのでついには家業を捨ててしまったらしい。
いつの頃からか、刀剣の商いをする者の間で村正の刀は頭を悩ませるものになっていた。そこでとうとう悪知恵を働かせて、人々の嫌う村正の銘をすり潰して改竄し、
「これは正宗ということになりました」
と言って喜んだ商人がいた。親しい人が、
「それは良くないだろう」
と苦言を呈したが、
「何、商売人がそんなことを怖がっていたのでは金儲けなどできるわけがありませんよ」
と一笑に付していた、という。
が、ある日、その商人の妻が自害した。もちろん、使われたのはその村正の刀だった……すぐにその刀は捨てた、という。
私(「耳袋」の著者、根岸鎮衛)も、浅間山の噴火後の復旧事業にあたって信濃近辺にいたころに村正の刀を見たことがある。召し使っていた者が、「不用になったというので、この村正を買い受けようと考えているのですが」と見せにきたのだ。
──それはなんとも見事で、好ましさのある刀だった。
が、よくない噂は数々聞いている。
「決して手に入れようとしてはならん」
と熱心に説き伏せ、さっさと先方に返させることにした。
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・「ねものがたり」は、古典文学・古記録などから気に入った話を現代語訳し、こわい話として再構成したシリーズです。
・話としてのおもしろさ・理解しやすさを優先しています。逐語訳ではありませんのでご注意ください。
出典
根岸鎮衛『耳嚢』より「村政の刀御当家にて禁じ給ふ事」「利欲応報の事」
底本
根岸鎮衛著、長谷川強校注『耳袋 上』1991年1月16日初版 岩波文庫