ねものがたり14 二十年

江州八幡──つまり、現代でも近江八幡と呼ばれるあたりでの話だ。
いわゆる近江商人らの活動が盛んだった当時はかなり栄えた地域であり、現代でもその遺構がよく保存されている。



さて、そんな近江八幡の商人に松前屋市兵衛という人物がいて、妻もあり、中々に裕福な暮らしぶりをしていた──のだが。
この男が突然行方をくらましたのである。

ある夜、市兵衛は「便所へ行く」と灯火を持たせた下女を連れて席を立った。
が、戻ってこない。夫と下女が連れ立って出ていってそのまま、となると、もちろん妻の心中は穏やかでない。様子を見に行った妻は、便所の戸の前で灯火を持ったままぽつねんと座り込んでいる下女の姿を見た。旦那様はまだ中にいらっしゃる、と言うのである。
「もし、」
妻は戸を叩いた。
「どうかされましたか。もう随分経ちましたが……」
返事がない。数度、繰り返したが戸の向こうは不気味に静まり返っている──ためらいがちに開いた戸の向こうに、市兵衛の姿はなかった。
それから大騒ぎになった。家の者は皆手を尽くして行方を探し、捜索のためには金に糸目を付けなかったというが、それでも市兵衛は見つからなかった。そんな状況だったから、便所へとついて行った下女は色んな意味で苦労したという。
市兵衛夫妻には子がなかった。後継ぎに相応しい者も見当たらない。幸い、市兵衛の妻は一族の中から迎えられた女性だったから、この妻に入り婿を取って後継ぎとすることで落ち着いた。
消えたその日が市兵衛の命日ということになった。


そして二十年の月日が経った。
ある日、便所の中から人の声がすることに気づいた者がいた。おおい、だとか誰か、だとか、人を呼ぶ声に戸を開けてみる──

──そこに市兵衛の姿があった。
二十年前と寸分違わない衣服のまま、便所に座っていた。

もちろん大騒ぎになった。
何があったのですか、今までどうされていたのですか、とか、こんな状況になっていたのですよ、とか、周りの人間があれこれと問い詰めたが、市兵衛ははっきりしたことは何も言わなかった。ただ、
「腹が減った」
とだけ言った。
さっそく用意されたものを市兵衛はがつがつと平らげていく。それとほぼ同時に、彼の着ていた衣服がぼろぼろとほこりや塵のように崩れ散って、とうとう市兵衛は裸になってしまった。
着替えさせて薬など飲ませ、様々に介抱したが、市兵衛は自分が失踪していた間のことを全く覚えていないらしかった。しかたがないので病気や体の痛みを治す祈祷などをしてもらった、という。


「しかし二十年ですからね」

と言ったのは、筆者の掛かっていた眼科医で、当時近江八幡でこの事件を目の当たりしたという者である。

「奥さんにとっても、入り婿したという新しい旦那にとっても、さぞや奇妙なお付き合いになったことでしょうよ」

そう言って彼は笑った。


──────────
・「ねものがたり」は、古典文学・古記録などから気に入った話を現代語訳し、こわい話として再構成したシリーズです。
・話としてのおもしろさ・理解しやすさを優先しています。逐語訳ではありませんのでご注意ください。


出典
根岸鎮衛『耳袋』巻之五より「弐拾年を経て帰りし者の事」


底本
根岸鎮衛著、長谷川強校注『耳袋 中』1991年3月18日初版 岩波文庫