本当に守りたいものはどちらか
目の前に差し出された救いの手
揺るがずそこにある社会の規律
本当に守るべき、否、守りたいものはどちらだろう。
……
ドラマのなかでゆらいでいた選択肢はその二つだった。自分を頼ってきた被災地の人の声と、待機命令という名の組織の決まりごと、どちらを守るのですかと。
立場や条件などによってその問いに対する答えは分かれることが予想されるものの、なにも考えない本音で選べるならば、前者をつかむ人が多いのではないだろうか。(これは私の世間に対する理想かもしれないが。)
しかし私がとった本音ともいえる咄嗟の選択は、後者だったのだ。私はどうしても一個人の意志によって持ち場を離れた主人公が許せなかった。持ち場を離れたが故に起こった事故だって起こったのだから。
とはいえ救いの声に耳を傾けるなというわけでなく、まず上に確認を取るべきだと当然のように思ったのだが、これはつまりすさんだ大人の意見なのかもしれない。冷静になった時にそうふと頭をよぎり、こうして記録のために筆を走らせている次第だ。
救いの手が差しのべられているのが生きるか死ぬかの局面ではないし、というのも私が後者を選択した大きな理由の一つだったのだが、人生などいついかなる時にどんなことが起こるかなんて分からない。
生きる保証すら危ぶまれ、刻一刻うつりかわる時間を見誤れば次の瞬間には命がないかもしれない、それが人生だ。そう思いなおした。
ドラマの主人公はいった、ただ目の前の困った人たちを助けたかっただけなのに。キラキラとかがやく澄みきった雫をあふれさせながら。かつては私も流したであろう、そのクリアで熱いみなぎるものを。
私のなかにあったはずの、エッジが効いた正義
感はどこへ行ってしまったんだろう。世論や社会的マジョリティに押し流されていくのをこの頃ますます感じる。
あの時の気持ちを見つめ直せ、本当に貫きたいものはなんなのかということを。