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と何かの本で読んだことがある。 それは人相の良い証だから、と。 その日はもう9月も終わりそうなのにも関わらず真夏日だとニュースでやっているような陽気だった。 少し遠くから声をかけられたので最初は気が付かなかったけれど、 ハンチングをかぶったおじいちゃんが私に道を尋ねていた。
私の家の周りには緑が多い。 地球自体がサウナみたいだった今年の夏が終わり、少し涼しくなった今の季節にはスズムシがなく。 リンリンリンともジリジリジリとも言っているように聞こえるこの音は、小さい頃地元の岐阜で聞いていたそれと似ている気がする。
自分ではなんとも思っていなくても苦労をせずに力を注いでしまえることが、その人の得意や特技だと言えるのだと聞いたことがある。 私にとってそれは文章を書くことだった。 そういえば幼い頃から母がよく褒めてくれることだったなあと思う。 いつも私はnoteを書くときに伝えたいことの場所や、空気、香り、温度感、心が感じるものを一つずつ言語化して書くようにしている。 より鮮明に文章から伝わってほしいと思うから。
私には大好きな場所がある。 不規則な丸をひとつ大きくくり抜いたアップルパイのような空間。 中は空洞、コンクリートの壁。
28歳になり、会話の大切さを実感する日々。 今でも伝えることは難しいなと感じることもあるけれど、それでも自分の伝えたいことは昔よりは口に出せるようになったなと思う。 それは雑談も、報告や相談も含めて全てのコミュニケーションに言えること。 10代〜20代前半の頃は特に人に自分の気持ちを伝えるのが苦手だった。 なぜ苦手に感じるのかというと、 これを言えば相手に自分が良くないように映るかなとか 怒らせてしまったらどうしよう とか 悲しい気持ちにさせたらどうしよう など自分の
カランコロンとドアベルの音と共にドアを開けると、紙製の商品が所狭しと並ぶ。 ヨーロッパから取り寄せた便箋や、封筒、コピー用紙にはない素材の毛羽だった紙。 海外の商品ならではの柄をした端切れの紙を集めたものもあった。 子ども向けのバースデーカードやバルーンの飾り、塗り絵やシール。 私の大好きな紙製品を中心に扱っている海外雑貨のお店だ。 今日で祖母が90歳のお誕生日を迎えた。 贈り物と手紙を添えたくて、新しい便箋と封筒を探しに来た。
ざらざらやつるつるした手触り、 紙とインクの香り、 冊子になった紙の重み。 幼い頃から本を読むことが好きでその影響か分からないけれど、紙を触ることも好きだった。 本は、自分の中に知識を蓄える方法の一つで まだ自身で味わったことのない経験や失敗や感情を疑似体験しているようだった。
最近よく考えることがある。 本当の努力ができる人は質がある。 中身がギュッと詰まっていて、底が見えない感じ。 逆に引き出しが浅いとすぐに底が見えてしまう。
外は酷暑で、室内は冷房が効きすぎて寒い。 冷房の中で冷え切った身体を温めたくて、 テラス席のあるカフェでデザートを食べた。 ビルの6階のテラスは、生ぬるい風が強く吹いている。
周りからはやさしいと言ってもらえることが多かった。 だから私は自分でも自分は優しい人間だと思っていたけれど、 喧嘩をしたり、話し合うことで解決していくような人間関係の経験値が人一倍少なかっただけなんだろうなと感じている。 気が弱いところがあって自分の意見は言いづらいから 深く関わり合う前に違うなと思えば自分から離れていく、 そうすることで関わりを切って来てしまったことは子どもの頃から大人になった今でも思い当たることが多い。
高く澄んだ空気 きらきらに輝く太陽 緑が眩しい芝生。 東京庭園美術館は、 都会にいるとは思えないほど 自然に包まれていた。
気持ちよく晴れた日は いつもとは違う時間帯に、 いつもの道を歩く。 仕事に向かう人、 小学校朝一番のにぎわい、 犬の散歩をする人。 いつもと同じ道なはずなのに、いつもと違う空気感。 なんだか心が落ち着いた。 普段、朝に1人で歩いていると仕事行く人たちや、まとまった社会の時間に逆流していると孤独な気持ちになる気がしていたけれどそんなことも考えなくなっていた。
なかなか待ち合わせが出来ない。 同じ場所を目指してるはずなのに、会えなくていつもより猛スピードのLINEを打つ。
いつもより人通りの少ない道。 ゆったり歩くすれ違う人たち。 楽しそうに散歩する犬。 仕事や時間に追われていない人の歩くスピード感は見ていて落ち着く。