母という病
この話を書くときに、どうしてこんなにも涙が出てつらいのか分からない。
数年前にも書き起こしたことがあったけれど、その時とは違う意味で虚しさとやるせなさを感じる。しかしながら、今の気持ちを何とかして言語化しようと思う。
私は大学進学とともに、一人暮らしを始めて5年目になる。
一人暮らしをしたいと思ったきっかけは、家族という最小の社会、そして強力な母という存在から逃れたいという気持ちがあったからだ。
私の家族は母、父、娘からなる。小さな家に生まれた一人っ子であり、両家にとって初めての孫だったのもあり、愛されて育てられた。そのおかげか両親とは比較的仲が良いと感じる。
ただ、母のことは好きである一方で、彼女を心から好きにはなれないとも思っている。その理由を言語化したいと思う。
挫かれた意志
小さいころから、私の意志は少しずつくじかれてきたように思う。最も幼い頃に意志が踏みにじられた記憶は、幼稚園か小学校の頃だった。
よく遊んでいた隣家の犬が亡くなったので、慰問のために犬と自分の絵を描いてその家の人に渡しに行こうとした時のことだ。母が「迷惑になるからやめなさい」と言って怒鳴って私を𠮟りつけた。母はマナーを重んじる人だから、きっと理由があったのだろうが、自分の善意は否定されたのだと感じた。
その一方で父は、「子供のやることにいちいち口を出すな」と母を諭していたことも覚えている。結局、私はその絵を渡すことはなく大号泣し、自分の何が母を怒らせたのか理解できなかった。
そうした経験から私の取るに足らない小さな意志は、少しずつ少しずつ奪われていくことになる。ある側面でいえば、母の価値観に基づいた「正しさ」であったが、私の意志ではないことが往々にしてあった。
具体的なことはあまり覚えていない。
ただ、幾度となく叱られる経験を経て、母が持ち出す「正しき」価値観の前では私が何を言っても、きっと母の論理にからめとられてしまうと思うようになり、ほとんど自分の要望や意志を口に出さなくなった。母が望む行動と、自分が心で望むことのギャップから、自分の殻に閉じこもるようにもなった。
母はよく「言いたいことがあるなら言いなさい」と言っていたけれど、何か言おうとして口を開くと、涙が出て何も言えなくなった。本当は言いたいことがあるのに、声が出なかった。
浪人し、自分の意志で進路を決めるときに初めて自分の気持ちを吐露することになる。声を出すまで、文章を言い切るまで長い時間がかかった。嗚咽が止まらなかった。
母はいつでも「なんでも好きなことをして生きなさい」と言ったけれど、本当に好きなことをする意思を汲んでくれていたのか。
私が考えていることを真に理解しようと思っていたのか。
何年も蓄積したしこりと疑念を初めて母にぶつけた。
両親は泣いていた。母は何度も何度も謝った。
その姿を見て同時に、そうか、私が何も言わなかったことは母を苦しめていたのだなとも理解した。
家を出る
大学で親元を離れてから最も感じたことは、私には意志決定の自由があるということだ。
母と私はぶつかって和解したけれど、「母の」価値基準は、私の中に内在化されていたために、すぐに自分の意志決定の自由を感じられたわけではなかった。自分の下した決定が、母の価値観に基づくものであり、母が好む物事の選択をしていることにも気が付いたとき、恐ろしい発見だった。
内在化された母の目を客観視するようになってから、徐々に私の好きなこと、好きなものを増やし、多くの挑戦をするようになった。
同時に、実家に帰ることは少なくもなった。母のことは好きだけれど、母と精神的にも物理的にも離れていることが心地よいと思っていた。
数年を経て、母との距離感を適切に保ち、母の言葉をワンクッションおいて聞くことができるようになってから、少しずつ話すことも増え、実家への滞在期間も伸びてきた。母が私を愛してくれることと、私を真に理解してくれることを切り離して考えることで、今まで許容できなかった母を受け入れられるようになったのは本当に良かったと思う。
長い時間がかかった。
ただ、母と私の関係から、家族における母という存在へと関係を広げて考えるようになると、新しい問題が首をもたげていることにも気が付くこととなる。これについては、次回述べよう。
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