母に対する功罪
先日のnoteでは、母に対する怒りに近い感情を露わにした。しかし、見方を変えると母に対する罪は私にもあるのだ。
話は逸れるが、私たちが使う言葉はコミュニケーションのためだけではなく、世界を分節化して理解するために用いられる。同時に、私たちが持つ思想や考え方は普段使う言葉によって規定されている。
言葉と思想はともに密接に結びついているからこそ、ある一つの言葉や概念から共通のイメージを共有することができるというメリットがある。その一方で、言葉に付与された既存のイメージから離れることは違和感を生み、受け入れがたくするデメリットもある。
例えば、「母」という言葉でイメージされる人物像はどういうものだろうか?
子供を愛する、料理をする、家事をする、育児をする、子供に教育をする、共働き、シングルマザー、子供と遊ぶ、お弁当を作る、子供に口うるさく言う、、、、、。
一般的に「母」と結び付けられる場面と動作を書き出してみた。もちろん、全ての「母」がこのように画一化されているるわけではないものの、母の役割としてイメージがついてしまうのは否めない。
では、自分の母を名前だけでイメージするとき、どのような人物を思い浮かべるだろうか。
きっと、役割ではなく性格や趣味などに注目したイメージが浮かび上がるのではないだろうか。
すると、「母」を母たらしめているのは、私たちや世間、そして母自身であると言える。
私たちや世間は、子供の持つ女性に「母」であることを求めており、母の理想を押し付ける。そして、彼女たち自身も「母」を内面化して「母」にならなければならないと思うようになる。その最たる例が、自身を「お母さん」や「ママ」と呼ぶ点にある。
もちろん、「お母さん」や「ママ」と言うのは誰にとっても理解できる役割をイメージさせるために便利だが、果たして本当に必要なのだろうか。
性別役割と結び付けられて付与された名称は、母を呪縛していないだろうか。
私個人の意見で言えば、母を母の呪縛から放つための一つに方法として、彼女たちの個別の名前で呼ぶことを提案したい。
世間)が「母」を求める限り、この役割が概念として私たちの中にあることには変わりないかも知れないけれど、最小の社会である家族の中では何か変化があるのではないかと思うのだ。
特に、子供や子供と密接な関わりのある幼少教育の過程で、「母」や「父」の役割をなくし、広義の「保護者」と言う概念のみを教えたらこの世界は変わったりしないのだろうか。
まあ、契約書類で「母」「父」って出てくるから、逃れようがないんだけどさ。
詰まるところ、私が「母」を解放したいし、私が「母」に押し込められたくないと言うことを長々と書き連ねてみたのである。