護る
最近、玄関の広間で寝ている。
とても涼しいので落ち着ける。
風もよく通り、木目の床もヒンヤリとしている。
僕はよくここで考え事をしている。
すぐ、色々な考えがでてくるわけではない。逆に眠くなってしまう。
20分考えてたら、40分は寝てるぐらいだ。
最近は自然について考えていた。
僕たちを一番恐怖に晒すのは自然だと思う。
死を一瞬で感じさせるからだ。
だが、自然は僕たちに死を感じさせる前に死よりも美を感じさせてくれる。
そのギャップに僕たちは萌えているのでないのか?
人を好きになる要因の一つにギャップ萌えというものがある。人間は自然が好きいや大好きだからこそなんだとおもう。
自然と人は何かと似ているところがある。自然と人は離しても離しきれない。離してはいけないものではないのでしょうか?
離せないのであれば、どったかがどっちかに属していらのかもしれませんね。
自然という言葉にはつきものがある。
「ゆたか」だ。
ゆたかとはなんなのでしょうか?
人それぞれ定義は全然ちがうとおもう。
ゆたかさは作れるのでしょうか?
僕は護るものだとおもう。
護るとはどうゆうことなのか?
護るとは今ある状態を保つことだけにあらず、もっとより良いものにしていくことだ。
すこし前に自然と人は離せず似ていると話した。
そうであれば、人にもゆたかさがあるのではないのでしょうか?
人と人の関係、生活などたくさんのものに当てはまる。
では、人のゆたかさも護らないといけないとおもう。
でも、自然にも災害というものがある。
人にも災害と呼ぶことのできるものもある。
どちらも、僕たちは嫌う。
必死に護ってきたものが壊れるからだ。
自分を裏切ったような気分になる。
だが、自然が災害を起こしてもぼくたちはどうにかしようと頑張る。
だが、人の場合はなぜかしたがらない。
おかしな話だ。
富士山は沢山噴火してあそこまで綺麗になった。世界遺産にもなってますよね。
人の災害が起こっても同じように護っていけば、世界遺産にはならなくても世界遺産のようなものになるのではないのでしょうか?
そうおもうと、災害も嫌なものに感じない。
ゆたかとは、どんなことがあろうと護っていかなければいけない。どんなことがあろうとも。
その積み重なりが僕たちの心をゆたかにしてくれるのではないのか。
ゆたかなモノに限らず、すべてのものを護る必要が、ある。ぼくはそう思う。