朝日が眩しくて二度寝ができない
「第一次世界大戦は化学者の戦争であり、第二次世界大戦は物理学者の戦争だった(中略)第三次世界大戦が起こるとすれば、それはーー」
未知の感染症に困惑しながらも小さな部屋に閉じ籠って生活しようと腹を括り、これまで何気なく摂取していた膨大な量の情報や他愛ないコミュニケーションの激減にかなり精神をやられていたのはもう一ヶ月も前のことだ。(気が狂いかけていた)
今はもう、日常のアップデートを少しずつ受け入れ始めて、食材が余るのを気にせず買い物ができることの「自由」だとか、会話する場や人を選べる「自由」だとか、そういうことを喜ばしいと考えられる筋肉をひたすらに鍛え続けている。なにもかもが瞬く間に変わってしまった。ほんとうに、自由は屈従なのか。
Self isolation開始当初、わたしはずっとサイモン・シンの『暗号解読』に出てくる一説を反芻していた。中学生の頃に担任だった、SF好きの理科教諭から問われたことだった。第三次世界大戦はどのような戦争になるだろうか。
サイモンが説いたのはもちろんその本のタイトル通り情報の戦争になるという黙示録だったのだが、当時14歳だったわたしは先生からその答えを聞くまでのあいだ必死に考えていた。ーー生物の戦争じゃないといいな。バイオテロのような世界が現実になったら、呼吸することや近しい人と触れ合うことそのものが恐怖になってしまうな。鳥インフルエンザみたいに感染した人間もどんどん駆除されてしまうのかな。わたしが感染してしまったら家族に迷惑をかけてしまうから、一人で遠くへ逃げて、そのままひっそり孤独に死のう。
戦時さながらの相互扶助という名の相互監視社会に嫌気が差している一方で、何らかの圧力によって外出を自粛しているような認識の自分に気付きまた少し落ち込む。そのほうがより良いから、と自由に選択しているはずなのに、自己の外部に判断基準を置いているようなこの感覚は何だろう。粛という字面が重たすぎるのかもしれない。こんなの戦争なんかじゃない。わたしは機会を得て生活様式をアップデートしているだけ。苦手だった料理も大好きになったし積ん読の消化も捗る、気になってたアニメや映画もNetflixでたくさん観れた。躊躇っていたお花のサブスクも始めた。何よりずっと家で過ごしているのなら家賃だって元が取れているだろう。ストレスはたくさんあるけれど、制限されている分、どこか別の領域に「自由」が拡張されていくような感覚をようやく持てるようになった。否、持つように努めて過ごしている。
景色や気候で季節を感じることは以前より多少難しくなったものの、日の出ている時間が随分と長くなったことは家に籠もっていてもよくわかる。我が家は意外にも朝日がしっかりと差し込んでくるようだ。東向きの部屋を選んだのは大正解だった。
本棚で眠っていた『戦時の音楽』を手に取る。
大丈夫。こんなの、戦争なんかじゃない。
2020.5.7