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谷崎潤一郎『鍵』Vol.11 妻の日記:1月30日(朗読用)3827文字
#谷崎潤一郎 『鍵』Vol.11
夫の日記:1月30日
タグ #NTR朗読RTA_鍵
企画 @NemureruMami
※朗読した音声は、原作の日記の日付と同じ【1月30日以降】にご利用のプラットフォームに投稿して頂き、投稿先のリンクをXにポストして下さい。
一月三十日。
あれからまだずっとベッドにいる。
時刻は今、午前九時半。
月曜で、夫は三十分ほど前に出かけたらしい。
出かける前、そっと寝室にはいって来、私が空寝入りしていると、しばらく寝息を窺(うかが)ってもう一度足に接吻して出て行った。
婆やが
「御気分はいかがですか」
と云ってはいって来たので、熱いタオルを持って来させ、室内の洗面台で簡単に顔を洗い、牛乳と半熟卵を一個持って来させた。
「敏子は」
と云うと
「お部屋にいらっしゃいます」
ということだったが姿を見せない。
私はもう気分も良くなり、起きて起きられなくはないのだが、寝たまま日記をつけることにして、一昨夜以来の出来事を静かに思い返している。
いったい一昨日の夜はどうしてあんなに酔ったのかしら。
体の工合(ぐあい)もいくらかあったに違いないが、一つにはブランデーがいつものスリースタースではなかった。
夫はあの日、新しいのを一本買って来たのだが、ブランデー・オブ・ナポレオンと書いてある、クルボアジエという名のブランデーであった。
私には大層口あたりが好かったので、つい度を過(すご)した。
私は人に酔ったところを見られるのが嫌なので、飲み過ぎて気分が悪くなると便所へ閉とじ籠もる癖があるのだが、あの晩もそうであった。
私は何十分間ぐらい便所に籠っていたのだろうか。
何十分? いや一時間も二時間もではなかったろうか。
私はちっとも苦しくはなかった。
苦しいよりは恍惚(こうこつ)とした気持だった。
意識はぼんやりしていたけれども全然覚えがないわけではなく、ところどころ分(わか)っている部分もある。
あまり長時間便器に跨がって蹲踞(うずくま)っていたので、腰や脚が疲れて、いつの間にか金隠(きんかく)しの前に両手をついてしまい、とうとう頭までべったり板の間についてしまっていたことも、うろ覚えに思い出される。
そして私は体じゅうが便所臭くなった気がして外へ出たのであったが、その臭気を洗い落すつもりだったのか、まだ足もとがふらついているので人に遇(あ)うのが嫌だったのか、そのまま風呂場へ行って着物を脱いだのであったらしい。
らしいというのは、何か遠い遠い夢の中の出来事のように記憶に残っているのだが、それから先はどうなったのか思い出せない。(右の上膊部(じょうはくぶ ※1)に絆創膏が貼はってあるのは誰かに注射されたのらしいが、児玉先生でも呼んだのだろうか)気がついた時はすでにベッドの中にいて、早い朝の日光が寝室を薄明るくしていた。
それが昨日の払暁(ふつぎょう)の午前六時頃のことだったらしいのだが、それ以後ずっと意識がハッキリしつづけていたわけではない。
私は頭が割れるように痛み、全身がズシンと深く沈下して行くのを感じつつ、幾度も眼が覚めたり睡(ねむ)ったりすることを繰り返していた、―――いや、完全に覚め切ることも睡り切ることもなく、その中間の状態を昨日一日繰り返していた。
頭はガンガン痛かったけれども、その痛さを忘れさせる奇怪な世界を出たりはいったりしつづけていた。
あれはたしかに夢に違いないけれども、あんなに鮮かな、事実らしい夢というものがあるだろうか。
私は最初、突然自分が肉体的な鋭い痛苦と悦楽との頂天に達していることに心づき、夫にしては珍しく力強い充実感を感じさせると不思議に思っていたのだったが、間もなく私の上にいるのは夫ではなくて木村さんであることが分(わか)った。
それでは私を介抱するために、木村さんはここに泊っていたのだろうか。
夫はどこへ行ったのだろうか。
私はこんな道ならぬことをしてよいのだろうか。
………しかし、私にそんなことを考える餘裕(よゆう)を許さないほど、その快感は素晴らしいものだった。
夫は今までにただの一度も、これほどの快感を与えてくれたことはなかった。
夫婦生活を始めてから二十何年間、夫は何とつまらない、およそこれとは似ても似つかない、生ぬるい、煮えきらない、後味の悪いものを私に味あわせていたことだろう。
今にして思えばあんなものは真の性交ではなかったのだ。
これがほんとのものだったのだ。
木村さんが私にこれを教えてくれたのだ。
………私はそう思う一方、それがほんとうは一部分夢であることも分っていた。
私を抱擁している男は木村さんのように見えるけれども、それは夢の中でそう感じているので、実はこの男は夫なのだということ、―――夫に抱かれながら、それを木村さんと感じているのだということ、―――それも私には分っていた。
多分夫は、一昨日私を風呂場からここへ運び込んで寝かしつけておいてから、私が意識を失っているのをよいことにして私の体をいろいろと弄(もてあそ)んだに違いない。
私は彼があまり猛烈に腋の下を吸いつづけるので、ハッとして或る一瞬間意識を回復した時があった。
―――彼がその動作に熱中し過ぎて掛けていた眼鏡を落したのが、私の脇腹わきばらの上に落ちてヒヤリとしたので、とたんに私は眼を覚ましたのだった。
―――私は体じゅうの衣類を全部キレイに剥ぎ取られ、一絲も纏わぬ姿にされて仰向けに臥(ね)かされ、フローアスタンドと、枕元の螢光燈のスタンドとが青白い圏(けん)を描いている中に曝されていた。
―――そうだ、螢光燈の光があまり明るいので眼が覚めたのかも知れない。
―――それでも私はただボンヤリしていただけであったが、夫は私の腹の上に落ちた眼鏡を拾って掛け、腋の下を止めて下腹部のところに唇を当てて吸い始めた。
私は反射的に身をすくめ、慌てて体を隠そうとして毛布を探ったのを覚えているが、夫も私が眼を覚ましかけたのに気がついて私に羽根布団と毛布を着せ、枕元の螢光燈を消し、フローアスタンドのシェードの上に覆いを被せた。
―――寝室に螢光燈などが置いてあるわけはないのだが、夫は書斎のデスクにあるのを持って来たのだ。
夫は螢光燈の光の下で、私の体のデテイルを仔細に点することに限りない愉悦を味わったのであろうと思うと、―――私は私自身でさえそんなに細かく見たことのない部分々々を夫に見られたのかと思うと、顔が赧(あか)くなるのを覚える。
夫はよほど長時間私を裸体にしておいたのに違いなく、その証拠には、私に風邪を引かせまいために、―――そうしてまた眼を覚まさせまいために、―――ストーブを真赤に燃やして、部屋を異常に煖(あたた)めてあった。
私は夫に弄ばれたことを、今になって考えると腹立たしくも恥かしく感じるけれども、その時はそんなことよりも、頭がガンガン疼(うず)くのに堪えられなかった。
夫が、―――カドロノックスかルミナールかイソミタールか、何か睡眠剤だったのだろう、―――水と一緒にタブレットを噛み砕いたものを口うつしに飲ましたが、頭の痛みを忘れたいので、私は素直にそれを飲んだ。
と、間もなく私はまた意識を失いかけ、半醒半睡(はんせいはんすい)の状態に入ったのだった。
私が、夫ではなくて木村さんを抱いて寝ているような幻覚を見たのはそれからであった。
幻覚? というと、何かぼうっと今にも消えてなくなりそうに、空(くう)に浮かんでいるもののようだけれども、私が見たのはそんな生やさしいものではない。
私は「抱いて寝ているような幻覚」と云ったが、「ような」ではなく、ほんとうに「抱いて寝てい」た実感が、今もなお腕や腿(もも)の肌にハッキリ残っているのである。
それは夫の肌に触れたのとは全く違う感覚である。
私はシカとこの手をもって木村さんの若々しい腕の肉を掴み、その弾力のある胸板に壓(お)しつけられた。
何よりも木村さんの皮膚は非常に色白で、日本人の皮膚ではないような気がした。
それに、………あゝ、恥かしいことだが、………よもやよもや夫はこの日記の存在を知るはずはないし、まして内容を読むわけはないと思うので書くのだけれども、………あゝ、夫がこの程度であってくれたら、………夫はどうしてこういう工合(ぐあい)に行かないのだろう。
………実に奇妙なことなのだが、私はそう思いながら、それが夢であることも、………夢といっても、一部分が現実で、一部分が夢であることを、………というのは、ほんとうは夫に犯されているのであって、夫が木村さんのように見えているのであるらしいことも、意識のどこかで感じていた。
ただそれにしてはおかしいのは、あの内容の充実感だけが、………夫のものとは思われない壓覚(あっかく)だけが、依然として感じられているのであった。………
………もしあのクルボアジエのお蔭(かげ)であのように酔うことができるのであったら、そしてあのような幻覚を感じることができるのであったら、私は何度でもあのブランデーを飲ましてほしい。
私は私にああいう酔いを教えてくれた夫に感謝しなければならない。
だがそれにしても、私が幻覚で見たものは、果して実際の木村さんなのであろうか。
私は現実には木村さんの容貌(ようぼう)を、衣服を通しての姿態を知っているだけで、まだ一遍もハダカを見たことはないのに、どうしてそれが幻覚になって出て来たのであろうか。
あれは私の空想している木村さんであって、現実の木村さんとは違うのであろうか。
一度私は、夢や幻覚でなく、実際に木村さんのハダカの姿を見てみたい気がする。………
奥様、朗読お疲れさまでした。
【次回】Vol.12 夫の日記:1月30日
こちらに投稿予定です。
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こちらは当note管理者・まみが主催する、朗読イベント用の書き下し文です。
イベントご参加の方に向けて、青空文庫収蔵 谷崎潤一郎 作『鍵』を、読みやすくリライトさせて頂きました。
エントリー不要、途中参加可、タグをつけるだけのフリーイベントですので、noteの皆様も、ぜひご参加ください。お待ちしております。
※1…上膊部(じょうはくぶ)
上腕。二の腕。
https://note.com/nemureru_mami/n/n8ee84b0140e6
原文(引用元)青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56846_58899.html
初出「中央公論」中央公論社 1956(昭和31)年1月、5月~12月
【朗読用書き下し文 ポリシー】
当作品は、夫の日記の部分がカタカナで書かれている為、全体的にリライトさせて頂きました。
①青空文庫を原文とする
②AIは使用しない
③難読漢字は残し、ふりがなを加える
④注釈入りの漢字は、適宜、現代漢字や平仮名に置き換える
⑤朗読時に読みやすいよう、適宜、改行、段落、読点、句読点、平仮名を加える。
【企画】眠れる森🌙まみ https://twitter.com/NemureruMami