谷崎潤一郎『鍵』Vol.12 夫妻の日記:1月30日(朗読用)964文字
一月三十日。
………正午過ぎ木村から学校へ電話、
「御容態はいかがですか」
と云うから
「今朝僕が出かける時までは寝ていたが、もう何でもなさそうだ。 今夜また飲みに来てくれたまえ」
と云ったら、
「とんでもない、一昨夜の晩はびっくりしました、少し先生も慎んでください。 しかしとにかくお見舞いに参ります」
と云っていたが、午後四時に来た。
妻ももう起きて茶の間にいた。
木村は
「もうすぐ失礼します」
と云ったが、
「今夜はぜひ飲み直そうよ、まあいいまあいい」
と僕は強く引き止めた。
妻も傍そばでそれを聞きながらにやにやしていた。
決して嫌な顔はしていなかった。
木村も口ではそう云いながら、その実腰を上げる様子はなかった。
木村は一昨日の深夜、彼が辞去した後に我々の寝室において、いかなる事件が起こったかを知るはずはないのだが、(僕は一昨夜、夜が明ける前に螢光燈を二階の書斎に戻しておいた)、そしてまた、まさか自分が郁子の幻影の世界に現われ、彼女を陶酔せしめた事を知っているはずはないのだが、にもかかわらず、内心郁子を酔わせたがっているかのごとき様子が見えるのは何故であろうか。
木村は、郁子が何を欲しているかを知っているかのごとくである。
知っているとすれば、それは以心伝心であろうか、あるいは郁子から暗示されたのであろうか。
ただ敏子だけは、三人で酒が始まると、必ず嫌な顔をして自分だけさっさと切り上げて出て行ってしまう。………
………今夜も妻は中座して便所に隠れ、それから風呂場(風呂は一日置きなのだが、当分毎日沸かす事にすると妻は婆やに話していた。
婆やは通いなので夕方水だけ張っておいて帰り、瓦斯(ガス)に火を付けるのは我々のうちの誰かなのだが、今夜は時分を見計らって郁子が付けた)へ行って倒れた。
すべて一昨日の通りであった。
児玉氏が来てカンフルを射した。
敏子が逃げたのも、木村が適当に介抱して辞去したのも先夜と同じ。
その後の僕の行動も同じ。
そして最も奇怪なのは、妻のあの譫語(うわごと)も同じ。
………「木村さん」という一語が今夜も彼女の口から洩れた。 彼女は今夜も同じ夢、同じ幻覚を、同じ状況の下において見た?
………僕は彼女に愚弄(ぐろう)されていると解(かい)すべきなのであろうか。………
こちらは当note管理者・まみが主催する、朗読イベント用の書き下し文です。
イベントご参加の方に向けて、青空文庫収蔵 谷崎潤一郎 作『鍵』を、読みやすくリライトさせて頂きました。
エントリー不要、途中参加可、タグをつけるだけのフリーイベントですので、noteの皆様も、ぜひご参加ください。お待ちしております。
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原文(引用元)青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56846_58899.html
初出「中央公論」中央公論社 1956(昭和31)年1月、5月~12月
【朗読用書き下し文 ポリシー】
当作品は、夫の日記の部分がカタカナで書かれている為、全体的にリライトさせて頂きました。
①青空文庫を原文とする
②AIは使用しない
③難読漢字は残し、ふりがなを加える
④注釈入りの漢字は、適宜、現代漢字や平仮名に置き換える
⑤朗読時に読みやすいよう、適宜、改行、段落、読点、句読点、平仮名を加える。
【企画】眠れる森🌙まみ https://twitter.com/NemureruMami