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谷崎潤一郎『鍵』Vol.10 夫の日記:1月29日(朗読用)5043文字

#谷崎潤一郎 『鍵』Vol.
夫の日記:1月日
タグ #NTR朗読RTA_鍵
企画 @NemureruMami

※朗読した音声は、原作の日記の日付と同じ【1月28日以降】にご利用のプラットフォームに投稿して頂き、投稿先のリンクをXにポストして下さい。

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 一月二十九日。

 ………妻は昨夜の事件以来、まだ一遍も起きた様子がない。
 昨夜僕と木村とで彼女を風呂場から寝室ヘ運んだのが十二時頃、児玉氏を呼んだのが〇時半頃、氏が帰ったのが今暁(こんぎょう)の二時頃。
 氏を送って出る時、外を見たら美しい星空であったが、寒気は凜烈(りんれつ)であった。
 寝室のストーブはいつも寝る前ひとつかみの石炭を投げ込んでおけば、それで大体ぬくまるのだが、
「今日は暖かにして上げた方がようござんすね」
と木村が云うので、彼に命じて多量に石炭を投げ込ませた。

 木村は
「ではどうぞお大事に。僕は帰らして貰います」
と云ったが、こんな時刻に帰らせるわけに行かない。
「寝具はあるから茶の間で泊って行きたまえ」
と云ったが、
「なに、近いんだから何でもありません」
と云う。
 彼は郁子を担ぎ込んでから、そのまま寝室でウロウロしていたのだが、(腰掛けるにも餘分(よぶん)の椅子がないので、僕の寝台と妻の寝台の間に立っていた)、そういえば敏子は、木村がはいって来ると入れ違いに出て行って、それきり姿を見せなかった。
 木村はどうしても帰ると云い、
「いえ何でもありません、何でもありません」
と云って、とうとう帰って行った。
 しかし正直の事を云えば、実はそうして貰う方が僕の望むところだったのだ。
 僕は先刻から或る計画が心に浮かびつつあったので、内心は木村が帰ってくれる事を願っていたのだった。

 僕は彼が立ち去ってしまい、敏子ももはや現れる恐れがないのを確かめると、妻のベッドに近づいて、彼女の脈を取ってみた。
 ヴィタカンフルが利いたとみえて、脈は正常に搏(う)ちつつあった。
 見たところ、彼女は深い深い睡(ねむ)りに落ちているように見えた。
 ―――彼女の性質から推して、果してほんとうに睡っていたのか寝たふりをしていたのか、その点は疑わしい。
 だが寝たふりをしているのなら、それでも差支えないと思った。

 ―――僕はまずストーブの火を一層強く、かすかにゴウゴウ鳴るくらいに燃やした。
 それから徐々にフローアスタンドのシェードの上に被せてあった黒い布の覆いを除いて、室内を明るくした。
 フローアスタンドを静かに妻の寝台の側近(そばちか)くに寄せて、彼女の全身が明るい光の輪の中にはいるような位置に据えた。

 僕の心臓はにわかに激しく脈搏ちつつあるのを感じた。
 僕はかねてから夢みていた事が今夜こそ実行できると思い、その期待で興奮した。

 僕は足音を忍ばせていったん寝室を出、二階の書斎のデスクから螢光燈ランプを外して、それを持って戻って来、ナイトテーブルの上に置いた。
 この事は僕がとうから考えていた事であった。
 去年の秋、書斎のスタンドを螢光燈に改めたのも、、実はいつかこういう機会が来るであろう事を豫想(よそう)したからなのであった。
 螢光燈にするとラジオに雑音が交(まざ)ると云って妻や敏子は当時反対だったのに、僕は視力が衰えて読書に不便である事を理由に螢光燈に変えたのだったが、―――事実読書のためという事もあったには違いないのだが、―――そんな事よりも僕は、いつかは螢光燈の明りの下に、妻の全裸体を曝(さら)して見たいという慾望に燃えていたのだった。
 この事は螢光燈というものの存在を知った時からの妄想だったのだ。………

 ………すべては豫期(あらまし)のごとくに行った。
 僕はもう一度彼女の衣類を全部、何から何まで彼女が身に纏っているものを悉(ことごと)く剥ぎ取り、素っ裸にして仰向かせ、螢光燈とフローアスタンドの白日の下に横たえた。
 そして地図を調べるように詳細に彼女を調べ始めた。
 僕はまずその一点の汚れもない素晴らしい裸身を眼の前にした時に、しばらくは全く度を失って呆然とさせられていた。
 僕は自分の妻の裸体をかような全身像の形において見たのは始めてだったからだ。

 多くの「夫」は彼の妻の肉体の形状について、恐らくは巨細(きょさい)に亙(わた)って、足の裏の皺の数までも知り悉(つく)している事であろう。
 ところが僕の妻は今まで僕に決して見せてくれなかった。
 情事の時に、自然、部分的にところどころを見た事はあるけれども、それも上半身の一部に限られていたのであって、情事に必要のないところは絶対に見せてくれなかった。
 僕はただ手で触ってみて、その形状を想像し、相当素晴らしい肉体の持主であろうと考えていたのであって、それゆえにこそ白光の下に曝して見たいという念願を抱いたわけであったが、さてその結果は僕の期待を裏切らなかったのみならず、むしろはるかにそれ以上であった。

 僕は結婚後始めて、自分の妻の全裸体を、その全身像の姿において見たのである。
 なかんずくその下半身を、ほんとうに残る隈なく見る事を得たのである。

 彼女は明治四十四年生まれであるから、今日の青年女子のような西洋人臭い体格ではない。
 若い頃には水泳とテニスの選手であったというだけに、あの頃の日本婦人としては均整の取れた骨格を持っているけれども、たとえばその胸部は薄く、乳と臀部の発達は不十分で、脚もしなやかに長いには長いけれども、
下腿部(かたいぶ)がやや○型に外側へ彎曲(わんきょく)しており、遺憾ながらまっすぐとは言いにくい。
 ことに足首のところが十分に細く括(くび)れていないのが欠点だけれども、僕はあまりに西洋人臭いすらりとした脚よりも、いくらか昔の日本婦人式の脚、私の母だとか伯母だとかいう人の歪んだ脚を思い出させる脚の方が懐かしくて好きだ。
 のっぺらぼうに棒のようにまっすぐなのは曲(くせ)がなさ過ぎる。
 胸部や臀部もあまり発達し過ぎたのよりは、中宮寺の本尊のようにほんの微かな盛り上がりを見せている程度のが好きだ。

 妻の体の形状は、恐らくこんな風であろうとおおよそ想像はしていたのだが、果して想像の通りであった。
 しかも僕の想像を絶していたのは、全身の皮膚の純潔さだった。
 大概な人間には体のどこかしらにちょっとした些細(ささい)な斑点、――薄紫や黝黒(あおぐろ)等のシミぐらいはあるものだが、妻は体中を丹念に捜してもどこにもそんなものはなかった。

 僕は彼女を俯(うつ)向きにさせ、臀(しり)の孔まで覗いてみたが、臀肉(でんにく)が左右に盛り上がっている中間の凹みのところの白さといったらなかった。
 ………四十五歳という年齢に達するまで、その間には女児を一人分娩しながら、よくもその皮膚に少しの疵(きず)もシミも附けずに来たものよ。

 僕は結婚後何十年間も、暗黒の中で手をもって触れる事を許されていただけで、この素晴らしい肉体を眼で視る事なく今日に至ったが、考えてみればそれがかえって幸福であった。
 二十数年間の同棲の後に、初めて妻の肉体美を知って驚く事を得る夫は、今から新しい結婚を始めるのと同じだ。
 すでに倦怠期を通り過ぎている時期になって、私は昔に倍加する情熱をもって妻を溺愛することができる。………
 僕は俯(うつ)向きに寝ている妻の体をもう一度仰向きに打ち反(かえ)した。
 そうしてしばらく眼をもってその姿態を貪り食い、ただ歎息(たんそく)しているばかりであった。

 ふと僕は、妻はほんとうに寝ているのではない、確かに寝たふりをしているのに違いないと思われてきた。
 彼女は最初はほんとうに寝ていたらしいが、途中から眼が覚めたのだ。
 覚めたけれども事の意外に驚きあきれ、あまりに羞(はず)かしい恰好をしているので、寝たふりをして通そうとしているのだ。
 僕はそう思った。
 それはあるいは事実ではなく、僕の単なる妄想であるかもしれないが、でもその妄想を僕は無理にも信じたかった。

 この白い美しい皮膚に包まれた一個の女体が、まるで死骸のように僕の動かすままに動きながら、実は生きて何もかも意識しているのだと思う事は、僕にたまらない愉悦を与えた。
 だがもし彼女がほんとうに睡(ねむ)っていたのだとすれば、僕はこんな悪戯に耽(ふけ)った事を日記に書かない方がよいのではあるまいか。
 妻がこの日記帳を盗み読みしている事はほとんど疑いないとして、こんな事を書いたら、今後酔う事を止めはしないか。
 ………いや、恐らく止めはしないであろう、止めたら彼女がこれを盗み読んでいる事を証拠立てるようなものであるから。
 彼女はこれを読みさえしなければ、意識を失っている最中に何をされたか知らないはずなのであるから。………

 僕は午前三時頃から約一時間以上も妻の裸形を見守りつつ尽きることのない感興(かんきょう)に浸(ひた)っていた。
 もちろんその間ただ黙って眺めていたばかりではない。
 僕は、もし彼女が空寝(そらね)入りをしているのだとすれば、どこまでそれを押し通せるか試してやれという気もあった。
 最後まで空寝入りをせざるを得ない羽目に陥れて困らせてやれという気もあった。
 僕はいつも彼女が厭がっているところの悪戯の数々、彼女に言わせれば執拗(しつこ)い、恥かしい、いやらしい、オーソドックスでないところの痴戯(ちぎ)の数々を、この機会であると思って代る代る試みてやった。

 僕は何とかしてあの素晴らしい美しい足を、思う存分わが舌をもって愛撫し尽くしたいという長い間心に秘めていた念願を、初めて果たすことができた。
 その他(ほか)あらゆる様々な事を、彼女の常套(じょうとう)語を真似れば、ここに書き記すのもまことに恥しいようないろいろな事をしてみた。

 一度僕は、彼女がいかなる反応を示すかと思って、あの性慾点を接吻してやったが、誤って眼鏡を彼女の腹の上に落とした。
 彼女はその時は明らかにハッとして眼を覚ましたらしく瞬(しばたた)いた。
 僕も思わずハッとして慌てて蛍光灯を消し、一時室内を暗くした。
 そしてルミナールー錠と、カドロノックス半錠とを、ストーブの上にかかっていた湯沸しの湯に水を割り微温湯(ぬるまゆ)を作って飲ました。
 僕が口移しにすると、彼女は半ば夢見つつあるかのごとき様子で飲んだ。(そのくらいの分量を服しても効かない時は効きはしない。
 僕は必ずしも睡(ねむ)らせるのが目的で飲ましたのではない。
 彼女が睡る真似をするのに都合がよかろうと思って飲ましてやったのである)

 彼女が睡り込んだ(もしくは睡り込んだ風をした)のを見定めてから、僕は最後の目的を果たす行動を開始した。
 今夜は僕は、妻に妨げられる事なく、すでに十分に豫備(よび)運動を行い、情慾を掻き立てた後であったし、異常な興奮にふるえ立っていた際であったから、自分でも驚くほどの事を行う事ができた。
 今夜の僕はいつもの意気地のない、いじけた僕ではなくて、相当強力に、彼女の淫乱を征服できる僕であった。
 僕は今後も頻繁に彼女を悪酔いさせるに限ると思った。

 ところで彼女は、彼女の方も数回に亙(わた)り事を行ったにもかかわらず、なお完全には睡りから覚めていないように見えた。
 なお半醒半睡(はんせいはんすい)の状態にあるかのごとくであった。
 時々彼女は眼を半眼に見開いたが、それはあらぬ方角を見ていた。
 手もゆっくりと動かしていたが夢遊病者のような動かし方であった。
 そして今までにない事には、僕の胸、腕、頬(ほお)、頸(くび)、脚などを手で探るような動作をした。
 彼女はこれまで決して必要以外の部分を見たり触れたりした事がなかったのだ。

 彼女の口から「木村さん」という一語が譫語(うわごと)のように洩れたのはこの時だった。
 かすかに、実にかすかに、たった一度だけであったが、確かに彼女はそう言った。

 これはほんとうの譫語(うわごと)だったのか、譫語のごとく見せかけて故意に僕に聞かせたのであるか、この事は今もなお疑問だ。
 そしていろいろな意味に取れる。
 彼女は寝惚(ねぼ)けて、木村と情交を行っていると夢見たのであるか、それともそう見せかけて、
「ああ木村さんとこんな風になったらなあ」
と思っている気持ちを、僕に分からせようとしているのであろうか、それともまた、
「私を酔わせて今夜のような悪戯をすれば、私はいつも木村さんと一緒に寝る夢を見ますよ、だからこんな悪戯はお止めなさい」
という意味であろうか。………

 夜八時過ぎ木村から電話。
「その後奥さんはいかがですか、お見舞いに伺うはずなのですが」
というので、
「あれからまた睡眠剤を飲ましたのでまだ寝ている、別に苦しんではいないらしいから心配に及ばぬ」
と答える。………

旦那様、朗読お疲れさまでした。
【次回】Vol.11 妻の日記:1月30日
こちらに投稿予定です。

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1月の日記

 こちらは当note管理者・まみが主催する、朗読イベント用の書き下し文です。
 イベントご参加の方に向けて、青空文庫収蔵 谷崎潤一郎 作『鍵』を、読みやすくリライトさせて頂きました。
 エントリー不要、途中参加可、タグをつけるだけのフリーイベントですので、noteの皆様も、ぜひご参加ください。お待ちしております。

https://note.com/nemureru_mami/n/n8ee84b0140e6

原文(引用元)青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56846_58899.html

初出「中央公論」中央公論社 1956(昭和31)年1月、5月~12月

【朗読用書き下し文 ポリシー】

当作品は、夫の日記の部分がカタカナで書かれている為、全体的にリライトさせて頂きました。
①青空文庫を原文とする
②AIは使用しない
③難読漢字は残し、ふりがなを加える
④注釈入りの漢字は、適宜、現代漢字や平仮名に置き換える
⑤朗読時に読みやすいよう、適宜、改行、段落、読点、句読点、平仮名を加える。

【企画】眠れる森🌙まみ https://twitter.com/NemureruMami

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