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谷崎潤一郎『鍵』Vol.1 夫の日記:1月1日(朗読用)

谷崎潤一郎『鍵』Vol.1 夫の日記:1月1日(朗読用)
3,729文字(空白除く)

夫の日記:1月1日
タグ #NTR朗読RTA_鍵
企画 @AmanumaMilk
※朗読した音声は、原作の日記の日付と同じ【1月1日以降】にご利用のプラットフォームに投稿して頂き、投稿先のリンクをXにポストして下さい。

イベント詳細👉 https://note.com/amanuma_milk/n/n8ee84b0140e6
#NTR朗読RTA_鍵  1月の音声投稿日

 一月一日。

 ………僕は今年から、今日まで日記に記すことを躊躇していたような事柄をも、あえて書き留める事にした。
 僕は自分の性生活に関する事、自分と妻との関係については、あまり詳細な事は書かないようにして来た。
 それは妻が、この日記帳を秘(ひそ)かに読んで腹を立てはしないかという事を恐れていたからであったが、今年からはそれを恐れぬ事にした。

 妻はこの日記帳が、書斎のどこの抽出(ひきだし)にはいっているかを、知っているに違いない。
 古風な京都の舊家(きゅうか※1)に生まれ、封建的な空気の中に育った彼女は、今日もなお時代おくれな舊(きゅう)道徳を重んずる一面があり、或る場合にはそれを誇りとする傾向もあるので、まさか夫の日記帳を盗み読むような事はしそうもないけれども、しかし必ずしもそうとは限らない理由もある。
 今後従来の例を破って夫婦生活に関する記載が頻繁に現われるようになれば、果(はた)して彼女は夫の秘密を探ろうとする誘惑に打ち勝ち得るであろうか。
 彼女は生れつき陰性で、秘密を好む癖があるのだ。
 彼女は知っている事でも知らない風を装い、心にある事を容易に口に出さないのが常であるが、悪いことには、それを女の嗜(たしな)みであるとも思っている。
 僕は、日記帳を入れてある抽出の鍵はいつも某所に隠してあるのだが、そして時々その隠し場所を変えているのだが、詮索好きの彼女は、事によると、過去のあらゆる隠し場所を知ってしまっているかも知れない。
 もっとも、そんな面倒をしないでも、あんな鍵はいくらでも合い鍵を求める事ができよう。

 ………僕は今「今年からは読まれる事を恐れぬ事にした」と云ったが、考えてみると、実は前からそんなに恐れてはいなかったのかも知れない。
 むしろ内々読まれる事を覚悟し、期待していたのかも知れない。
 それならばなぜ、抽出に鍵を懸けたり、また、その鍵を、あちらこちらへ隠したりしたのか。
 それはあるいは、彼女の捜索癖を満足させるためであったかも知れない。
 それに彼女は、もし僕が日記帳を故意に彼女の眼に触れやすい所に置けば、
「これは私に読ませるために書いた日記だ」
と思い、書いてある事を信用しないかも知れない。
 それどころか、
「ほんとうの日記が、もう一つどこかに隠してあるのだ」
と思うかも知れない。

 ………郁子(いくこ)よ、わが愛するいとしの妻よ、僕はお前が果してこの日記を盗み読みしつつあるかどうかを知らない。
 僕がお前にそんな事を聞いても、お前は
「人の書いたものを、盗み読みなどいたしません」
と答えるにきまっているから、聞いたところで仕方がない。
 だが、もし読んでいるのであったら、決してこれは偽りの日記でない事を、この記載はすべて真実である事を信じてほしい。
 いや、疑い深い人に向ってこういう事を云うと、かえって疑いを深くさせる結果になるから、もう云うまい。
 それよりこの日記を読んでさえくれれば、その内容に虚偽はあるか否かは、自然明らかになるであろう。

 もとより僕は彼女に都合のよい事ばかりは書かない。
 彼女が不快を感ずるであろうような事、彼女の耳に痛いような事も憚(はば)からず書いて行かねばならない。
 もともと僕がこういう事を書く気になったのは、彼女のあまりな秘密主義、―――夫婦の間で閨房(けいぼう)の事を語り合うさえ恥ずべき事として聞きたがらず、たまたま僕が猥談(わいだん)めいた話をしかけると、たちまち耳を蔽(おお)うてしまう彼女の、いわゆる「身嗜(みだしな)み」、あ、偽善的な(※2)な「女のらしさ」、あのわざとらしいお上品趣味が原因なのだ。
 連れ添うて二十何年にもなり、嫁入り前の娘さえある身でありながら、寝床にはいっても、いまだにただ黙々と事を行うだけで、ついぞしんみりとした睦言(むつごと)を取り交そうとしないのは、それでも夫婦といえるのであろうか。

 僕は彼女と直接閨房の事を語り合う機会を与えられない不満に堪えかねて、これを書く気になったのだ。
 今後は僕は、彼女がこれを実際に盗み読みしていると否とにかかわらず、しているものと考えて、間接に彼女に話しかける気持でこの日記をつける。
 何よりも、僕が彼女を心から愛している事、―――この事は前にもたびたび書いているが、それは偽りのない事で、彼女にもよく分っていると思う。
 ただ僕は生理的に彼女のように、あの方の慾望(よくぼう)が旺盛(おうせい)でなく、その点で彼女と太刀打ちできない。
 僕は今年五十六歳(彼女は四十五になったはずだ)だからまだそんなに衰える年ではないのだが、どういうわけか、僕はあの事には疲れやすくなっている。
 正直に云って、現在の僕は週に一回くらい、―――むしろ十日に一回くらいが適当なのだ。
 ところが彼女は(こんな事を露骨に書いたり話したりする事を彼女は最も忌むのである)腺病質(せんびょうしつ※3)で、しかも心臓が弱いにもかかわらず、あの方は病的に強い。
 さしあたり僕がはなはだ当惑し、参っているのは、この一事なのだ。

 僕は夫として、彼女に十分の義務を果たし得ないのは申しわけがないけれども、そうかといって、彼女がその不足を補うために、もし仮りに、―――こんな事を云うと、私をそんなみだらな女と思うのですかと怒るであろうが、これは「仮りに」だ、―――他の男を拵(こしら)えたとすると、僕はそれには堪えられない。
 僕はそんな仮定を想像しただけでも嫉妬を感ずる。
 のみならず、彼女自身の健康の事を考えても、あの病的な慾求(よっきゅう)に、幾分の制御を加えた方がよいのではあるまいか。

 ………僕が困っているのは、僕の体力が年々衰えを増しつつある事だ。
 近頃の僕は性交の後で、実に非常な疲労を覚える。
 その日一日ぐったりとして、ものを考える気力もないくらいに。
 ………それなら僕は彼女との性交を嫌っているのかというと、事実はそれの反対なのだ。
 僕は義務の観念から、強(し)いて情慾を駆り立てて、いやいや彼女の要求に応じているのでは断じてない。
 僕は幸か不幸か彼女を熱愛している。

 ここで僕は、いよいよ彼女の忌避(きひ)に触れる一点を発(あば)かねばならないが、彼女には彼女自身、全く気が付いていないところの、或る独得な長所がある。
 僕がもし過去に、彼女以外の種々(しゅじゅ)の女と交渉を持った経験がなかったならば、彼女だけに備わっている、あの長所を長所と知らずにいるでもあろうが、若かりし頃に遊びをした事のある僕は、彼女が多くの女性の中でも極めて稀(まれ)にしかない器具の所有者である事を知っている。
 彼女がもし、昔の島原のような妓楼(ぎろう)に売られていたとしたら、必ずや世間の評判になり、無数の嫖客(ひょうかく)が競って彼女の周囲に集まり、天下の男子は悉(ことごと)く、彼女に悩殺されたかも知れない。
(僕はこんな事を彼女に知らせない方がよいかも知れない。彼女にそういう自覚を与える事は、少くとも僕自身のために不利かも知れない。しかし彼女はこれを聞いて、果して自らを喜ぶであろうか、恥じるであろうか、あるいはまた侮辱を感じるであろうか。多分表面は怒って見せながら、内心は得意に感じる事を禁じ得ないのではなかろうか)僕は彼女の、あの長所を考えただけでも嫉妬を感ずる。

 もしも僕以外の男性が、彼女のあの長所を知ったならば、そして僕がその天与の幸運に十分酬(むく)いていない事を知ったならば、どんな事が起るであろうか。
 僕はそれを考えると不安でもあり、彼女に罪深い事をしているとも思い、自責の念に堪えられなくなる。

 そこで僕は、いろいろな方法で、自分を刺戟(しげき)しようとする。
 たとえば僕は僕の性慾点―――僕は眼をつぶって眼瞼(まぶた)の上を接吻して貰(もら)う時に快感を覚える、―――を、彼女に刺戟して貰う。
 また反対に、僕が彼女の性慾点―――彼女は腋の下を接吻して貰う事を好むのである、―――を刺戟して、それによって自分を刺戟しようとする。
 しかるに彼女はその要求にさえ、あまり快(よ)くは応じてくれない。
 彼女はそういう「不自然な遊戯」に耽(ふけ)る事を欲せず、飽くまでもオーソドックスな正攻法を要求する。
 正攻法に到達する手段としての遊戯である事を説明しても、彼女はここでも「女らしい身嗜み」を固守して、それに反する為を嫌う。

 彼女はまた、僕が足のフェティシストである事を知っていながら、かつ、彼女は自分が異常に形の美しい足(それは四十五歳の女の足のようには思えない)の所有者である事を知っていながら、いや、知っているがゆえに、めったにその足を僕に見せようとしない。
 真夏の暑い盛りでも、彼女は大概、足袋(たび)を穿いている。
 せめてその足の甲に接吻させてくれと云っても、まあ汚いとか、こんな所に触るものではありませんとか云って、なかなか願いを聴いれてくれない。
 それやこれやで、僕は一層手の施しようがなくなる。
 ………正月早々愚痴をならべる結果になって、僕もいささか恥かしいが、でも、こんな事も書いておく方がよいと思う。
 明日の晩は「ひめはじめ」である。
 オーソドックスを好む彼女は、毎年の吉例(きちれい)に従い、必ずその行事を厳粛に行わなければ承知しないであろう。………

旦那様、朗読お疲れさまでした。
【次回】Vol.2 妻の日記:1月4日
12月4日 こちらに投稿予定です。

https://note.com/amanuma_milk/n/n8ee84b0140e6

 こちらは当note管理者・甘沼が主催する、朗読イベント用の書き下し文です。
 イベントご参加の方に向けて、青空文庫収蔵 谷崎潤一郎 作『鍵』を、読みやすくリライトさせて頂きました。
 エントリー不要、途中参加可、タグをつけるだけのフリーイベントですので、noteの皆様も、ぜひご参加ください。お待ちしております。
イベント詳細👉 https://note.com/amanuma_milk/n/n8ee84b0140e6


※1 舊家(きゅうか)
昔から続いてきた家。由緒ある家柄。以前に住んでいた家。
https://www.weblio.jp/content/舊家#google_vignette

※2「ア 偽善的ナ」は原文ママ

※3 腺病質(せんびょうしつ)
体格が貧弱で貧血ぎみの、虚弱で神経質な子供の体質。頸部(けいぶ)リンパ節結核のみられることが多かったところからの称。現在ほとんど用いられない。
https://www.weblio.jp/content/腺病質#google_vignette

原文(引用元)青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56846_58899.html

初出「中央公論」中央公論社 1956(昭和31)年1月、5月~12月


【朗読用書き下し文 ポリシー】

当作品は、夫の日記の部分がカタカナで書かれている為、全体的にリライトさせて頂きました。
①青空文庫を原文とする
②AIは使用しない
③難読漢字は残し、ふりがなを加える
④注釈入りの漢字は、適宜、現代漢字や平仮名に置き換える
⑤朗読時に読みやすいよう、適宜、改行、段落、読点、句読点、平仮名を加える。


【企画】眠れる森🌙まみ https://twitter.com/NemureruMami


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