一億総“両津勘吉”社会
この頃、「孤独・孤立対策」が政策課題として浮上している。
ことし2月には内閣官房に「孤独・孤立対策室」が設置され、一億総活躍担当大臣が所管することとなった。
孤独・孤立といってもいろいろある。自ら選択した結果としての孤立、選択できなかった結果としての孤独、そして選択されなかった結果としての孤独…などなど。
なかでも、いまの時代では「自ら選択した結果としての孤立」の層が分厚くなっているような気がする。あくまで肌感覚なのだけど、ものすごい振れ幅になっているように思える。
おとなは家族を作らなければならないという規範が根強かった時代において、「自ら選択した結果の孤立」、それも今でいう「ソロ活」のような生き方をすることはある種の「社会的逸脱」であった。
そんな時代で自らひとりを選び、誰よりも楽しそうにしていた男といえば、「日本一有名なおまわりさん」の両津勘吉だ。
こち亀での両津は一部の例外を除き、変人として描かれ、煙たがられる。見事なまでの「逸脱者」扱いだが、趣味に明け暮れ子ども心を忘れないあの男は、半ばファンタジーか、妖精のごとく描かれてもいる。
でも、どうやら実年齢は35歳くらいらしい。
当時としては両津のような年齢で趣味に生きるおとなは珍しかったのだろう。だからこそ漫画として成立するし笑い者にもされてきたのだ。
いまはどうだろう。
ドラマで共演した女優と40歳にして初婚を迎えても、日本中が祝福してくれる。つまりもう、年齢という規範にゆらぎが生じているのかもしれない。
そして両津のように、趣味に全振りするおとなは、男女問わずわりと見かけるようになった。
結婚および家族に関する規範がゆらいで、稼いだお金で好きなものを好きなようにして生きることが許されるようになった結果、人びとはだんだんと「両津化」している、ように思う。
(とはいえ当の両津は稼いだ金でどうこうするどころか借金漬けだったんだけども)
それでもなお、「いいおとながそんな生き方なんて…」というような規範を有しているひとは年代を問わずある程度いる。
それってたぶん、まわりにいたおとなが規範を遵守していたあまりに、その「乱し方」をまだ知らないだけなのだと思う。
規範を無批判に抱き続けるほど、規範を揺るがされたときにたやすく「転ぶ」。
両津を笑い者にしていたら、いつの間にか自分も両津みたいな生き方をしていた、なんてこともあるかもしれない。
そう、いまはもはや「一億総活躍社会」ならぬ、「一億総“両津勘吉”社会」が到来しつつあるのだ。
ところが、だ。
両津は亀有の派出所の同僚や亀有の人びとに見守られているどころか、わりとモテる。
彼は世帯としては孤立しているけど、その内実は社会関係に支えられまくりの、いわば「歩くソーシャルキャピタル」だ。
一般ピーポーが趣味の領域で「両津化」したところで、彼のようにうまく生きることはたやすくはない。
孤立感を深めてしまうだけで福祉のご厄介になる未来が待っているかもしれない。
結局、ひとはどこかの領域でつながりが必要なのだと思う。家族形成という規範がなくなったなら、こんどはそれに充当する社会関係の規範を用意しなければいけないのかも。
たとえば纏のような、つかず離れずの微妙な親類とか。
まぁそんなのなかなかいない。
というか、はとこが身近にいる関係なんて両津と纏のほかには、タラちゃんとイクラちゃんくらいしか知らない。
でもなんか、これからの時代なにかしらの社会関係は規範化されたほうがいい気がする。
そのほうが寄りかかれる規範が生まれて、みんな多少は楽になれる、はず。
ただ、誰がどのように規範化するのかが問題になりそうだけど。
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