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あだ名にまつわるエトセトラ
わたしには「あだ名」がたくさんある。
ありがたいことに、昔から知り合いの90%以上があだ名で呼んでくれる。
家族にさえあだ名で呼ばれることがあるくらいだ。
おかげで下の名前はほとんど知られていない。
だからもし、不意に下の名前を呼ばれたとしても即座に反応できる自信がない。
まるで、「おれの名前はいっぱいあってな…」でおなじみの『ルドルフとイッパイアッテナ』のようである。
口頭では同じに聞こえても、文字に起こすとカタカナ、ひらがな、漢字表記の違いがあって楽しい。
なにより興味深いのが、相手が属するコミュニティによって、どのあだ名で呼ぶかが規定されていることだ。
だからなのか、異なるコミュニティに属するひとに会うたび、まるでハンドルを使いわけているかのような気分になる。
ひどい時は、同じ苗字のふたりが、それぞれ別々のあだ名で呼び分けられていると勝手に認識されたあげく、
「まさか同一人物とは思わなかった」
なんて言われたこともあった。
どういうことなの。
それでも大学時代になって、英語のクラスで一緒だった子が発したあだ名がなぜか急速に広まって圧倒的なシェアを誇るようになった。
でも、かつてのあだ名への愛着もなかなか強い。だからこそ昔からの知り合いに会うときに呼んでもらえるとけっこう嬉しい。
しかしだ。
先月のことである。
かつてそれなりのシェアを誇ったあだ名の発案者に再会したとき、なぜか苗字呼び捨てで呼ばれたのだ。
いいオトナになったいま、相手をあだ名で呼ぶのはためらいがあるのだろうか…。
でも、あんたが呼んでくれなきゃあのあだ名は宙に浮くんだよ、、、頼むよ、、、。
なんて思いながらも、彼がそのあだ名自体を忘れてるかもという可能性を考えたりして、急に自信喪失。
ものすごーく小さなことに聞こえるかもしれないけど、下の名前に愛着がないわたしにとって、あだ名はわりと重要事項なのである。
だからこそ、相手のことも相手がいちばん気に入るような呼び方で呼びたいと思ってもいる。
本名登録が法的に義務化でもされない限り、わたしはずっとあだ名にこだわり続けると思う。
こんなわたしみたいな状態のことを、「ニックネーム・アイデンティティ」とでも概念化しておこう。
しかし、昨今の小学生たちは、こんなアイデンティティなんて抱かせてもらえなさそうである。
そう、いわゆる「あだ名禁止」の校則ってやつだ。
わたし自身、呼ばれてうれしくないあだ名をつけられたこともあった。
イヤだなぁって思ってもやめてくれなくて、ヘコむこともあった。
だからそのときは、彼らにはそんな角度でみえてるんだ、そんな風に思われてるんだなって客観化することにしていた。
ひとをどう呼ぶかって、そのひとのセンスが出る部分だと思う。
まぁでも、ひとを不快にさせるような呼び方をしてくるようなひとのセンスなんて、だいたい大したことない。
そんなしょうもない不快なセンスに踊らされたあげく、「あだ名禁止」に賛同してしまうのは、単なる思考停止でしかないように思える。
あだ名そのものを禁止にすることで、一時的な「心地よさ」を得たとしても、問題の「不快なセンス」そのものがなくなるわけではない。
そのため、いままでなら身に付けられるはずだった「不快なセンス」への対処法をまったく知らないまま、社会に出たときにその「不快さ」と対峙しなくてはならなくなる。
これってめちゃくちゃ残酷だ。
それと情緒面でいえば、バカ正直に自分の名前一本で呼ばれるってすっごく息苦しいことだと思う。
だって、たいていの場合この名前と一生付き合っていくんだよ…?
確実にどっかで飽きるじゃん…。
とにかく、名前で呼ばれない楽しさって、相当なものだとわたしは信じてやまない。
あだ名で呼ばれなければ、呼ばせればいい。
たまにはそれくらい図々しくてもいいじゃないか。
そのかわり、あだ名で呼ばれることへの感謝を忘れないことがだいじだと、わたしは思う。
さて、生真面目なアイツはいつになったらあだ名で呼んでくれるかしら。