「飲めるけど飲まない」という生き方に関するいくつかの考察
ひとはなぜ酒を飲むのだろう。
わたしは酒が下戸ではないどころか、弱いほうでもないという自負すらある。
しかし、飲めるひとはとりあえず飲まなければならないというこの文化、なんだろう?
「飲めない」というマイノリティを犠牲にしてまで「みんなで」飲む理由もわからなければ、飲むことで忘れる、ストレス発散みたいなのもよくわからない。
っていうかそもそも飲食店が酒をすすめてくるのは、酒なら一杯じゃなくていっぱいのんでくれるからお店にとって経済的だというからくりがあるわけで、それにまんまとはまっているわけだ。
しかも、「俺は期間限定とかきらいだ!」とか、「(某大手広告代理店)が〜」とかいうひとこそ、軽々と策に落ちていたりする。
それでも楽しけりゃいいじゃん!って多くのひとは思うかもしれない。
でも、もし飲まなきゃ本気で盛り上がれないような仲ならば、もういちどそのひと(たち)との関係を見つめ直したほうがいいのではなかろうか。
というかそもそも、アルコールの力借りなきゃ本音が話せないなんて、情けなくありませんか…?
近ごろ、
「酒が人をアカンようにするのではなく、その人が元々アカン人だということを酒が暴く」
ということばがにわかに広まっている。
じゃあそういうことなら元々アカンなりに、虚心坦懐に話しましょうや。
「下戸なんで」
と言い切って酒を断りつつも、くせ者店主と打ち解けられる、『孤独のグルメ』の井之頭五郎みたいな生き方をしたい。