好きなお店が閉店する

 好きなお店が閉まるらしい。行きつけ、というにはまだ青く、かといって初めまして顔では互いに気恥ずかしい程度の、栄転閉店(果たしてそんな言葉があるのか?)だそうだが、わたしにとってはかなり痛い。殆ど毎週行っているし、あそこの麺シリーズ、多分絶対きっとわたしが一番愛していた。写真あるよ!

 行き始めは高円寺に引っ越してから季節が一つ進むくらいには月日が経っていた頃。新天地、仕事、時間だけがただただ過ぎてゆく、日々を無事に終えることにかまけて、自分のしたいことは愚か、感情すらおいてきぼりにしていた去年の夏。取り立てた理由などなく、ふら〜っとお店に入ったんだと思う。初めての記憶は皆無に等しく、だからこそ一年以上通っている理由が妙に明確になる。

 そのお店はなんといっても丁寧なご飯が食べられることが魅力で、それは本当に「ていねい」という言葉の意味の通りの、長時間の肉体労働を終えた後の身体にまだかろうじて自分が人間であったと教えてくれるような味なのです。そりゃあ味がしっかり決まっているラーメンやら責任能力を一切無効にするウーロンハイとか飲みたいときありますけどね。何が大事かっていうのは自分がただの社会の歯車の一員ではなく、一人の人間として扱われている感覚を味わえるかってこと。

 かなしきかな、前に住んでいた場所でもお店が閉店することは多々あり、わたしは知らせを聞いて衝動に近い悲しみを抱えたり、はたまた、口を強く結んで頷けるくらいには理解者ぶれる時もある。共通して言えることは、お店が閉店することは「よくある話」で、なぜなら永遠などないからであり、「組織」や「会社」は人を変えながら未来永劫続く場合があるけれど、「人」が土台の「店」は前者と比べるとかなり儚い気がする。

 その地に根付いたお店にわたしが居座り始めた時、閉店はわたしに警鐘を鳴らす。わたしが我が者顔で、もしくは家族みたいな顔をしながらビールを飲み出したら、それはもう、自分の中で腹を括る時が来たということだ。部屋の隅に仕舞い込んだ賃貸契約書を引っ張り出し、契約更新の欄とにらめっこをする。永住地を決めるにはまだ若いが、かといって新しい地に行くことも決めかねていた。
 お店の閉店の知らせを聞くと、わたしがその場所に馴染み過ぎているのがわかる。少しの未練があった方が、過去は美しい。

 大好きなお店が閉まるらしい。わたしもそろそろ高円寺を後にする時が来たのかもしれない。

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