
INFPのくよくよ日記② 〜大丈夫?って言われたい〜
こんばんは
こんばんは、紺野です。
今日は日曜日、自分にしては珍しくとても充実した1日だったと思うのですが、noteを開いているということはつまり、落ち込んでいます。
どこにもはきだしようのない自分の中のぐるぐるした気持ちをそのまま書いていく日記です。もう書くことないやと思えるくらいまで考え尽くしたいな。
その3 無理やわでぃ─川
タイトルがカスでごめんなさい、もう無理やわ、とエーヤワディー川を合わせた造語です。落ち込んでいる時、つい自分の中でもう無理やわ、、と呟いてしまうのですが、それと語感が似ているエーヤワディー川と合体させてしまいました。
そんくらい落ち込んでいると何も考えられないです。
ちなみに全然関西出身じゃないです。
こんな変ちくりんな言葉は流石に人前では発しません。というか、もう精神的に無理だ、なんて口が裂けても言えません。だってみんなはもっと頑張っていて、私よりもっと辛い思いをしていて、私なんかがもう無理だなんて言っていい訳ないんだから───
と、心の中でごめんなさいするところまでがセットです。こんなことしている暇があったらぼうっとするか、寝ている方が有効に時間を使えるのに、、この思考回路でさらに自己嫌悪に陥ります。頭悪いです。
そんな時はエーヤワディー川に思いを馳せよう。
どこの川かも覚えていません。高校の時の地理の授業で習ったけど、多分アジアかなあ、くらい。多分そこに暮らしてる人は友達の時給が自分より高いことで落ち込まないし、友達の方が自動車免許とるの早かったとか気にしてないし、友達は日曜日にサークル活動してるのに私は平日で甘えてるかななんて思う訳ない。流石にここまでくると自分でも笑ってしまうけれど、本当に私の思考の解像度はこのくらい。このくらいどうでもいいことまでネガティブに捉えられてしまう、これって才能ですか。
そんなことは置いといて、頭に浮かぶことを考えるだけ考え尽くしたら、その思考で消費したエネルギー分を自分で補わなくちゃ。自分を嫌というほどいじめたんだから、そんなことないよ、大丈夫だよって言ってあげるのも自分じゃなきゃ、、
そんなこと、できる訳ないけど。
こういう、自分に向けて攻撃的な言葉を反芻するのも、自傷行為の一部みたいだなあと思います。そう思うとりすかする人の気持ちも少しはわかりそうな気がして。
でもやっぱり生きてゆかなくちゃいけないから、ご褒美にお芋蒸しパンを食べたりします。傍目からも自分からも何も頑張っているように見えないかもしれないけど、それでも確実にエネルギーは消費してるもの。
これからもおいも蒸しパンと二人三脚で頑張って生きていきます。
その4 大丈夫?って言われたい
日々生きているだけでずーっと自己否定ばっかり。自分で自分を労ることがとっても苦手な私はそれでもやっぱり誰かに大丈夫?って心配して欲しかったりします。
こんだけ落ち込んでいてもそれを表には出せなくて、でも頭の中は自分への誹謗中傷でいっぱいで、毎日辛くて辛くてたまんないのだから誰かしらは私を心配してくれるかな?って不純な期待がずっとありました。誰かが心配してくれたら、自分は頑張っているんだって認めてあげられるような気がして。メンタル面でもフィジカル面でもなんでもいいけど、とにかく大丈夫?とか、無理しないでねって言葉をかけられたい。
その度に自分の中で悪魔の囁きが聞こえる。
そうやって人に心配されたいなんて、かまちょにも程があるよ、とか。
人に心配される可哀想な自分でいたいんでしょ、悲劇のヒロインに憧れてるんだ、きもい、とか。
でもやっぱりしんどい、誰かにもう頑張んなくていいよって言って欲しい。
私はその気持ちの裏返しで人にたくさんその言葉を言います。
「大丈夫?」「無理しないで」「今日は休んだら?」「いつも頑張りすぎだよー」
って。
でも私にその言葉を返してくれる人はいません。私がみんなにあげた優しい言葉、誰一人として私には返してくれません。
見返りを求めて言葉をかけているから?それって悪いこと?
人からの心配=自分の頑張っている証拠
と歪んだ認知をしてしまう自分にさらに嫌気が差します。
そんなの全部わかってる。自分が自分のいちばんのアンチだから、全部全部正論わかってる。
でも、それでも、辛いもんは辛い。
どんなに辛くても人には相談できません。私はもう知ってしまった。人は別に助けてくれない。私がいちばん欲しい言葉じゃなくて、相手がいちばん言いたい言葉を向けてくる。それで結局また落ち込むだけ。
(何この文章?
自分の気持ちを整理して、ってどの口が言った?
こんなもの公開すべきじゃなくて、自分の中で消化すべきなんだろうけど、、)
でも、もし私とおんなじような性格の人がいたら、もしかしてだけど、ほんとにもしかしてだけど、少しこれを読んで気が楽になる人がいるかもしれない。(いやいるわけないけどさ!!)
でも仲間意識とか持てたらいいな。辛いの、私だけじゃないといいな。とか。
(文章ゴミでごめんなさい。もし読んでくれた人がいたなら、、
備忘録のつもりでして、、)
その5 積極的消極
雑談です。
秋が近づいてきたと思ったらもう冬のような寒さですねというのはもう言い古された言い方かもしれませんが、私はこの季節の擬人化?っぽいものにロマンを感じます。
まだ夏が居座っているよ、とか、秋はすごいスピードで駆け抜けて行ったね、とか。
なんだか私たちの辛い日々に季節が並走してくれているみたいで、なんだか仲間っぽさ。秋は私たちのことを置いて行ったけど、代わりに冬が迎えにきてくれた。これから仲良くやろーぜ、、冬。
ちょっと寒すぎるし、来るの早すぎてるけど。
現実的な考え事から離れて、そういう人には到底聞かせられないような中身のないことを考えるのは私の大切なアクティビティです。タスクといった方がいいかもしれません。私はこれを積極的消極と呼んでいます。
この積極的消極の時間が私を自己否定から解放してくれる数少ない時間です。
自然の中や寺社、大学構内の和室にいるとき、はたまたつまらない教授の授業中なんかにはこういうことを積極的に考えるようにしています。大事な休息です。
最近で言うと、夏休みに母といった京都がうってつけのシチュエーションでした。
京都大原の寂光院というところです。平安京の碁盤の目から少し離れた山の方(たぶん)にある静かなお寺ですが、なんだかとっても孤独が安らぎました。いちばん良かったのは建物の外に出てルートに沿って歩いているときで、とんでもなく高い杉の木?がたくさん生えているところに私がポツンと立っていました。
この杉の木に囲まれてなんだかどこか遠くへ連れて行かれそうな気がしました。もしくは、このままぼうっとしたまま意識を失いそうな感じ。とにかく神秘的で、日常の雑音を体から抜いてくれるような雰囲気のところでした。
思い出しただけでなんだか安心するようなゾワっとするような不思議な感覚です。ここのおっきな木々たちは自分の味方のような気がしたんです。
なんだか、のろのろ生きて行かなきゃいけないなあと思ったのでした。
おしまい。
ただでさえ眠いのに実験の報告書と予習をせずにこれを書いてしまいました。訳がわからなくなったので寝ようと思います。おやすみなさい。