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無知と偏見とグローバル

オーストラリアで、ミャンマー人家庭にホームステイ。

それが私の最初の海外体験だ。

当時私が暮らしていた町ではシドニーと文化交流事業を行っており、毎年中学生を10人程度送っていた。親の負担は確か10万円だったとおもう。その他の渡航費滞在費を町が用意してくれるばかりか、出発まで毎週公民館にALTの先生が来てくれての英語の強化授業、現地の歓迎会で披露するための盆踊り(!)やオーストラリア国歌・愛国歌の練習などなど準備は万端、期待に胸を膨らませて夏の日本から寒いオーストラリアに飛んだ。

(いまでもオーストラリア人と知り合うと、この時教わった国歌と、オーストラリア人にとっては国歌以上に愛着のあるWaltzing Matildaの一節を歌うのだがめちゃくちゃ掴みはOK!になる。役立ってるなぁ)

オーストラリアは移民国家だ。

たぶん、盆踊りの練習よりも町はそのことを教えるべきだった。

当時インターネットもなく、周りにも外国人はALTの先生しかおらず、知識のない私は「外国=白人・ブロンド・青い目」と思い込んでしまっていた。

だから、自分とあまり見た目の変わらない、小柄で黒い瞳の彼女が「Hi I am Yamin, Nice to meet you!」と笑顔で語りかけた瞬間、リアクションが取れなかった。あまりに私はこどもでそして無知だった。

彼女の家族はミャンマーからの移民で、おそらくまだそれほど在豪期間は長くなく、パパとママは英語が話せなかった。ホストシスターのヤミンとその弟が私とパパママの間に入って通訳をしてくれる。家の中には大きな仏壇があり、ちょうど日本の位牌のようなものが丁寧にしまわれていた。家族みんながそこでお祈りをする間、一緒にやろうと誘われるので私も仏壇の前に座る。異文化体験をしに来たはずが、毎日家でやらされているのと同じように仏壇に手を合わせている。なんだこれは。

いつもと違う環境に疲れていたこともあるのかもしれないが、私は頑なになってしまった。なんかちがうなんかちがうなんか思ってたのと違う! 

白人家庭にホストしたともだちが羨ましく見えた。

なかなか心を開けない私に、でもヤミン家族はとてもよくしてくれた。休日になるとヤミンの叔母さんとその彼氏がオペラハウスに連れて行ってくれたり船に乗せてくれたりした。彼氏が来るいうので、私はまたもや白人のすらりとした青年を勝手に思い浮かべたのだが、現れたのは中華系だったのでまたガッカリした(かっこよかったんだけど)私はここでもまた人種差別をしている。自分も同じアジア人なのに、無知といつのまにか刷り込まれた偏見というのは恐ろしいものだ。

その後もヤミンは本当によくしてくれて、在豪ミャンマー人が集まるパーティーに連れて行ってくれたり、資産家らしき在豪ミャンマー人の家に連れて行ってくれたり(このおじさんは山口百恵とともだちだと言っていたけど本当だろうか)約2週間ずっと気にかけてなにかれと世話をしてくれた。

今のゆるい自分からは想像もつかないけれど、やはり14歳というのは多感で不器用で、一度固まった心を溶かすには私には2週間では足らなかった。

最終日、ヤミンが手紙をくれた。「あなたが来てくれてよかった。楽しかった」と書いてあった。

それでもまだ私は自分が何に対してそんなに頑なになっているのかの答えが分からなくて、どう反応したらいいのかもわからなくて、日本に帰ってからもついに一度も彼女に手紙を書かなかった。

大人になってあちこち海外旅行に行ったり、ともだちもできたり、本を読みインターネットに溢れる情報を見て、あの14歳の時の自分の感情が何に起因しているのかがすごくクリアに見えるようになった。それと同時に、「なんとなくつまらなくてモヤモヤしたなぁ」で片づけてしまっていたオーストラリアでの記憶を紐解いて、改めて理解を深めることができた。ってゆうかめちゃくちゃ面白い体験だったじゃないか!いまの私でもう一回やり直したい!

人はそのままでは無知だ。無知は偏見を生む。それは楽しくない。

14歳の私と同じようなマインドのまま生きている日本人のおとなは、残念ながらとても多い。自国に誇りを持つことと、他国を見下すことは全く別問題なのだけれど。

グローバル社会に生きる人間として十分なレベルには達していないけれど、それでもあの頃から比べたら私はずっと成長したと思う。今の私なら、ヤミンに聞いてみたいことがたくさんあるよ。

ヤミンの家にたくさんストックされていたランブータンの缶詰を東京のスーパーで見かけて、それで思い出して書いてみた。苦い、大事な思い出でした。