【東欧の想像力】オルガ・トカルチュク『プラヴィエクとそのほかの時代』
ガルシア=マルケスのマコンドが、あるいは中上健次の路地がそうであるように、神話的なトポスがやがては消滅することが約されているならば、ポーランドの架空の村プラヴィエクもまたその例外ではない。『プラヴィエクとそのほかの時代』(1996)の主人公は土地であり、やがては消え去るまでの時間である。そもそもある地への名付けは如何になされているのか。他の地と隔てる境界は誰が作ったのか。西洋列強がアフリカ大陸を直線で切り刻んだような帝国主義に、または男性原理にトカルチュクは抗う。地の歴史を読み替える。
「プラヴィエクは宇宙の中心にある」、魅力的なプラヴィエクで始まる本作だが、これが「世界」の中心ではないところがミソだ。大国のはざまで様々な文化の交差すら東欧を、トカルチュクは中欧と呼んだらしい。たび重なる侵略なか幾度も領土線の変更を余儀なくされた中欧、その間隙への視座(宇宙の中心)は絶対的な、あるいは男性的な中心を撹乱する。そして、それはあたかも汎神論的な世界に接近する。
一者による直線的なナラティブは強権的な歴史と神話に接近する。断章形式によるトカルチュクの戦略はプラヴィエクの視点を自在に飛び回り、中心の概念を撹乱する。1914年から二度の大戦、反共、連帯運動をはさみながら、ある二つの家系を中心に、84の断章を通じて二十世紀を観察する。
まず冒頭、ゲノヴェファなる女性が本書の中心人物ミシャを身ごもるシーン、「みんな娘がほしいわ。もしみながいっせいに女の子を産みはじめたら、世界は平和なのに」、これは直前に夫がコサック兵に徴兵されてのことだ。あるいは、街の娼婦ともはぐれ者ともいえないクウォスカが、居酒屋で男と交わるところ、「なんであたしがあんたの下なの? あんたとあたしは平等なはずよ」。また、「女性が男性より早く死に、母が父より早く死に、妻が夫より早く死ぬ時代だった。だって女性は、その乳房で人類を養っていたから」という文章もある。トカルチュクの狙いは、男性が作り上げてきた歴史の、女性による読み替えとまずはいえる。
断章による視点はプラヴィエクのなかに限定されるため、外へと徴兵されていった男がなにをしているかは描かれない。もっとも描く必要もないだろう。第二次大戦時にはプラヴィエクに侵略してきたドイツ兵による非道が描かれはする。
本作が単なるフェミニズム文学かといえば、トカルチュクの断章はもっと自由だ、そうした理解からも逃げる。天使、水霊カワガラス、コーヒーミル、キノコの菌糸体など人間以外のものを視点に呼び込む。または、世界への悲観にかられた領主にユダヤ人のラビが授ける、奇妙なボードゲームのルールブックなんてのもある。へんな本だ。
なかでも、とりわけ重要なのがコーヒーミルだろう。
ここにコーヒーミル=プラヴィエク=宇宙の中心という視座がみえる。または、ゲノヴェファの働く製粉所、「プラヴィエクでなじみの、あのうるさい音が聞こえなくなった。水車は世界を回すモーター、世界を動かす機械だった」、常に回転し、変化を促すものとしての世界という見方は受け入れやすくもある。
回転・変化する時間ということで、やはり想像するのは四季の変化だろう。だが、トカルチュクは四季を変化しながらも、繰り返されるものという見方は柔らかく退ける。
時間が、四季が繰り返すという見方は人間中心主義で独我的でもある。時間のなかに個々の生があり、極めて人間中心的な二度の大戦にしても単に繰り返されたわけでなく、そこには個々の人々の営みがある。繰り返されない個々の生と死がある。
あるいは、トカルチュクの世界観を構成するキノコ、土塊のなかを放射状に広がるキノコの菌糸体、目に見えぬ場所に蠢く円形の世界。
宇宙の中心は川(水車小屋)を離れ、より小さなミルとなって中心をもたぬ偏在する中心へと(ラストでは、ゲノヴェファの孫、ミシャの娘アデルカとともにプラヴィエクの外へと運ばれていく)、または地に深く世界へと広がるキノコのように、目に見えないかたちで地を編み変え、抵抗をうむ。
侵略と包囲による方形の思考は家を領土というかたちで拡大せしめ、家系へとつらなる垂直な思考で歴史をつくる。男性の思考。トカルチュクの女性原理への視座は、よりケアへの目配せとなって、人間外の生物をも巻き込むかたちで円形に放射される。
トカルチュクの中心思想ばかり書いてしまった。ガルシア=マルケスなど南米のマジックリアリズム文学にも近い味わいとして、トカルチュクが紹介されるのをよく目にする。やはり本作でも奇矯な人物が多く、読んでいてとても愉快なのだが、しかし強者の歴史には名を残さぬような市井(というと、とたんに日本の所帯じみた小説のようになってしまうが)の人物の愚かしくも哀しい、そして愛らしい小さなエピソードの数々が、菌糸のようにゆるやかに編み束ねる筆致こそがトカルチュクの魅力だ。強者による大文字の歴史、世界観がより小さくもスケールの大きい万物の宇宙へと変成する、そこにトカルチュクをいま読むことの意義がある。