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なぜ文章を書くか。何を書いているか。なぜ「公開」するのか。

noteの世界には、書くことに自信や自負を持っている方が多い。謙遜こそすれ、前向きさが滲む。

大変、良いことだと思う。前向きな姿勢は結果を担保するものでは無い。しかし、自分の気持ちを一つの目的、つまり「書く」という行為に集中させてくれる。結果、”確率”が上がる。例えば、地面に置かれた幅10cm、長さ5m程の板上を歩くことは容易いが、ビルとビルの間に敷かれたそれを渡り切れる人はまずいない。課題は変わっていない。明確に気持ちの問題である。そういう前向きさが、noteという媒体に良い循環をもたらしているように思う。

以前、「文章を書くときに心がけていること」というnoteを書いたことがある。私は物書きではないし、別段そのような需要があると思って書いたわけではない。だから、たくさんの方からスキを頂き、たいそう驚いた。前述の態度が他人からも学ぼう、と意欲を掻き立てるのだろうか。とすれば、その健全さもまた居心地が良い。

私は、何を書くのか。

私が行っているのは、主に頭の中の
① 観念の言語化
② 概念のパターン化
の2つの作業だ。もう少し具体的に書くと、①は「頭の中のぼんやりとしたイメージを言語にすること」、②は「言葉同士の組み合わせのパターンを引き出しとして文章化すること」といった表現になる。

なぜそれをしておきたいか。

それは勿体ないからだ。せっかく思いついたはずの、気の利いた(ような気がする)表現や小話が、あの時、あの場所でなぜだか想い出せない。歯に何か挟まったようで、気になって途端に会話に集中できなくなる。いつ開かれるか分からないが、来るその瞬間のために、少しずつ引き出しを整理したい。それだけの目的だ。

故に、内容も
・異なる角度からの物事の考察(言葉の再定義、常識への疑問)
・過去の自分に関する考察(何が、なぜ、どのように自分に影響したか)
といったものが多い。どれも、自分のために書いている。一般的なnoterさんとは、少し毛色が違うかもしれない。

では、なぜ公開するのか。

恥ずかしげもなく公開するのは、同じような視点が誰かの役に立てば、なお嬉しいからだ。私たちは、本を通じて、いつでも未だ見ぬ賢人の英知を疑似体験できる。noteは、ともすれば賢人の集まりでないのかもしれないが、もっと地に足ついた身近な知恵や視点に溢れている。

役に立てば、とは少し言い過ぎたかもしれない。「へー、そんな考え方のあるんだね。」そうして私の文章に触れた人の視野が、それ以前よりほんの少しでも広がってくれれば。自分のために蒔いた種が、文章として実を結び、誰かの役に立ったなら。結果論として、それは極めて利他的である。実のところ、そういう二つの目的で、能動的に、受動的に文章を書いている。

↓最近フォロー頂く方も多いですので、過去に書いたnoteを何点かリンクします。お時間のある方は、ぜひご笑覧下さい。↓

… 「たとえ全く同じものを見ていても、実は人によって違った景色を見ている。」そのことを様々な身近な例で書いています。

… 育児という行為は、男性を中心にまだまだ「軽く」考えられています。残念ながら、そのような男性を夫に持ってしまった妻側の方に「なぜ育児は創造的な行為と言えるのか」を男性目線で説明したnoteです。

… 私は、日本有数の大企業に入社しましたが、周りの同期のレベルの高さに入社早々愕然としました。特徴のない自分が、サバンナの中で「どのように生き残るか」を考えた時のことを書いたnoteです。

… 「利他」が喧伝される現代ですが、利他を求めて他人と衝突する、という矛盾を同時に孕んでいます。この矛盾について結論したnoteです。

… セーフティネットが整備された現代、生きること自体に必要な労力は逓減し、むしろ価値ある時間の使い方が志向されているのではないか。収益モデルの多様化による影響について考えたnoteです。

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