「面倒くさい」という現代病への処方箋。

私の「面倒くさがり屋」振りといえば、なかなかのものだ。許されるのなら、家から一歩も出ずに過ごしたい。更に欲を言えば、エアコンの効いた静かな室内で毛布にくるまり1日中ゴロゴロとしていたい。

「そんな人生、一体何が楽しいのか。」と訝しく思うかもしれない。もちろん私も全くの同意見だ。異論の余地は無い。何の変化も無いグータラな生活など、誰がどう考えても楽しいはずがないだろう。だから面倒くさいけどスーツを着て会社に行き、刺激的なビジネスの世界に身を投じる。面倒くさいけど結婚して家庭を持つ。面倒くさいけど人と遊びに行き、ガハハと笑う。

誤解しないで頂きたいのは、「面倒くさい」と「楽しくない」とは全く別個、別次元の話だということだ。頭では過去の経験から外に出た方が変化に富んだ楽しい一日を送れることくらい、十分すぎるほど理解している。朝の3:00に家を出発し、福岡県は糸島市の有名なパン屋で美味しい朝食を取ったあの朝も、突然の呼び出しに応じて真夜中に湘南の海辺を歩いたあの夜も、気ままに自転車を走らせ1泊2日で疑似箱根駅伝を敢行したあの日もそうだ。衝動的に何かを行って後悔するのは、「もっと計画を練れば、より充実したものになったよね。笑」という前向きな反省くらいもので、できたという達成感を足し込み、計画に割かれたであろう時間をコストから差っ引けば、それらは満点に近い過ごし方だったと言えるように思えるのだ。

頭では分かっていても身体が動かないこの現象は、恐らく人類特有のものだろう。脳から身体への命令伝達を司る神経回路のどこかで、半導体のようにON/OFFを操作してしまうスイッチがいつの時代からか備わってしまった。以前、「『利己』に実る、『利他』の果実。」という文章を書いた時に、似たようなことを考えた。我々はいつからか「生きるために生きる」必要から解放され、「生きること以外のために生きる」必要が出てきた。この飽食や自由の存在が、同時に「自らの頭で思考し、選択する」という行為を義務として我々に科す。それこそが「面倒くさい」の正体なのではないかと思う。例えば、種族が繁栄するために労働力としての子孫を増やさなければならない時代には、結婚や出産を選択肢として悩む必要はなかった。それは人生のマスト条件であり、敷かれたレールの上を通らなければならない悩みはあっても、選択の悩み自体は無かったのだ。

誠に残念ながら、この傾向は今後加速していくと思われる。AI時代には人類は単純作業のほとんど全てから解放され、より自由にその付加価値を発揮できるようになる。付加価値とは、貴方独自の価値とほとんど同義となる。例えば人の話を聞いて共感したり、琴線に触れる文章を書いたり、人が喜ぶことをしたり、困っている人を助けたり。より工業技術的ではない部分の価値の比率が相対的に上昇してゆく。(既にそうなりつつあるが、それが加速する。)こういうことを「失業率」とリンクさせて煽り立てたいのが人の性だが、失業率は今とほとんど変わることはないだろう。失業の性質や経済原則、これまでの産業構造の変化と失業率の相関をみれば、AIが長期で失業率を押し上げないことなど明らかだ。少なくともAIに給料が支払われるのではない、という前提に立てば。

話が逸れたが、我々は「面倒くさい」というスイッチを制御すべく、非常に面倒くさい不断の戦いを自らの中で繰り広げなくてはいけない。それでなくては、福利で増加する面倒くさいを前に心身や人間関係に支障をきたす。我々の精神性はかれこれ数百年大して進歩していないのだから、この課題を克服すべく作戦を考えなくてはならない。

これまでの話を整理すれば、「面倒くさい」とは
①意思決定に付随して生じる
②放っておくと福利で増える
③解消すると充実感を伴う
という性質があることになるのだろう。だから基本的なアプローチは
・不要な意思決定をせざるを得ない環境からすぐに脱出する。(例:人間関係や所属先の整理)
・すぐに解消できる仕組みを作る。(例:リマインド、細かいことを指摘してくれる人を身近に置く)
ということになる。できる限り自分にとって効用の高い意思決定を最短の時間でできる仕組み作りが重要だ。飲み会やゴルフに行きたくないなら、最初に断ることだ。決定を引き伸ばすためについた嘘が、何かしらの良い結果をもたらした記憶は無い。

これまでの所、私の人生で最良の選択だと胸を張れるのは、少しばかり口うるさい妻と結婚したことだ。友人や同僚は妻の私に対するストイックな態度に同情しきりだが、彼女がいなければ私は今日も毛布にくるまって病に蝕まれながら一日を浪費したに違いない。かつて市役所に提出した婚姻届は、過去の私が面倒くささを振り切って、必死にプレゼントしてくれた病への処方箋だったのではないかと思う。

最後に1つ。パートナーの小言に素直に耳を傾けるべきか否かの判断基準を明示して終わりたい。それは3つの設問を自分に課すだけの、数秒でできるとてもシンプルなものだ。

Q1
「それは、いつかの時点で貴方がやるはずのことか。」
Q2
「それは、貴方が今日着手するつもりもなかったことか。」
Q3
「その課題の他に、30分以内に必ず解決しなくてはならない緊急の課題は無いか。」

3つのYESが揃ったのなら、話は早い。「ありがとう、すっかり忘れていたよ。すぐにやるね。」とはにかんで、あらゆるwantに優先して本件に着手するのだ。私はスロットマシンで遊んだことは無いが、少なくとも大当りのBGMと共にジャラジャラと滑り落ちてくるコインの総額以上には、得られる満足感は多いのではないかと思う。

将来するはずのことを貴方が再選択するのに必要な限界コストは、たった数秒の時間だけだ。それで、福利的に増加する膨大な借金をいとも簡単に返せるのだから、株や債権を買うよりよほど良い投資ではないか。もちろん、一般的に言って「ノーリスク」等という詐欺的な触れ込みには常に疑ってかかるべきだが、Q1で貴方は既に着手することを運命づけられていると理解したのだから、これは本当にノーリスクの、1口から始められるオイシイ投資話なのだ。 乗らない手はない、というものだ。

何かのお役に立ちましたなら幸いです。気が向きましたら、一杯の缶コーヒー代を。(let's nemutai 覚まし…!)