「ロックンロール」との再会
みなさん、飲んどりますか、にーとです。
今日もみなさんと同じ夜を、のんべんだらりと過ごしていこうと思います。
ちょっと嫌なことがあった気持ちを引きずりながら過ごしたある日の話。
知り合いのライブに行きました。その知り合いはBARのマスターをしている人なので、この先はマスターと呼称します。
マスターの店に飲みに行って、会計の時に年末にある主催ライブのチケットをもらいました。アマチュアバンドの集まるライブです。
ライブ前日、飲みすぎていて、頭が痛かった。
久しぶりのライブハウスは、懐かしさよりもタバコと人の臭いで頭痛がする。バーカウンターでジンバックを頼んで喉を潤したけど、酒が足りない。
久しぶりの爆音に心よりも先に身体がついていかなかった。
マスターのバンドの演奏が始まり、会場は人の行き来が難しいぐらいに混雑していた。アマチュアのバンドのライブとは思えないくらいの人の多さ。
近くにいたオシャレなおじさんが嬉しそうにライブを見ていた。
率直な感想ですが、決して演奏は上手くなかった。
打ち損ねるドラム、リズムキープが厳しいベース、音抜けが良すぎて歯抜けになるギター。
帰ろうかと思いました。
が、会場をよく見てみると、最前列で踊っている人、リズムに乗りながら「かっこいいよ!」と叫んでいる人、目の前で手を挙げてノっている人。
マスターの音楽を心から楽しんでいる人達。
良いか悪いか、上手いか下手か、技術があるかないか、自分はこういう気持ちでマスターのライブを見ていましたが、それは違うのではないかと急に思い始めました。
自分の中の魔虚羅が適応する音が聞こえました…ガコン
この空間のすべてがマスターの「想い」を理解した人たちの暖かい空間であり、この場にあるのは上手いかどうかではなく、好きかどうかなんだと。
この場にいる人たちはマスターが好きで、マスターの音楽が好きなんだとわかった時に、今まで痛かった頭と、帰ろうかと思っていた気持ちが消えていくのを感じた。
何かを表現するのは怖いことだと思います。
それは、良いか悪いかで判断されるからである、と。
けど、表現することはそういった個人的な感情に本来邪魔されるべきではない。良いか悪いかではなく、誰か、もしくは、自分がその表現が好きかどうかで判断すべきなんだと。
マスターは、自分の表現に信念を持っていた。
反戦と平和を願うロックンロールには「心」があった。
僕らは、良いか悪いか、得か損か、利が有るか無いかで物事を判断する癖がつきすぎている。
好きかどうか、気持ち良いかどうかという原初的な、動物的な感情を忘れていると思います。
マスターは最後にこう言いました。
「上手い演奏を聞きたいならそういう場所に行けばいい。俺らは俺らのロックンロールをするだけだから」
僕は、これをテンプレートだと思っていました。
アイドルが、みんなのアイドルであり恋人であると言った後日、イケメン俳優と文春砲食らうのと同じような、テンプレートだと思っていました。
けど、マスターの言うこれはテンプレートではなく「事実」です。
現に、彼のライブを見て体を揺らし、酒を飲み、良い演奏だと声を上げる人が、僕の目の前に何人もいました。
皆、マスターのロックンロールを聞きに来て、マスターのロックンロールを感じに来てるんだと。
帰る時、嫌なことがあったことを忘れていました。
マスターの創る小さな世界の大きな優しさに触れ、僕の嫌な思いは、再会したかっこいいロックンロールによって解放されたようです。
世界のすべてのロックンロールに
そして
世界の終わりのチバユウスケに
感謝と愛を。
しぇけなべいべー🎸