今年だけの、私だけの夏
夏期講習の課題を机に広げたまま、疲れたな、休憩しようか、と携帯を開く。
有名な某小説投稿サイトの、「あなたへのおすすめ」の中から、ひとつ。
「死ネタ」のタグが付いているのにも関わらず、気になって読み始めて、10万字を超える物語を読み終えた後に、少しだけの後悔。
机の上には開いたままの課題と、その上に涙を吹いたティッシュペーパー。
人が死ぬ話を読むと、どうも感傷的になってしまう。
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私はその作者の方とは一切面識がないし、既存作品の二次創作の小説であるから、この場で名前は挙げないけれど。
あらすじを語ると、親友どうしの五人の一人が若くして病気で亡くなる。明るくていつも笑顔で五人の中心にいた彼女。大人になっても彼女の死の傷を癒すことができなかった残された四人だが、紆余曲折を経て彼女の死を受け入れて思い出の場所に集まる。という感じだろうか。
ここに君の姿はないけれど、その輝きと温もりは、あの日からずっと私たちの中に存在しているよ。
死を受け入れて四人のうちの一人がこのようなことを言った。
確かにもう戻ってこないけれど、それでもずっと自分の中にある。
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私だけかもしれないけれど、夏はどうしても命について考えてしまう。
窓の外には蝉時雨。土の外から出たあとの蝉の寿命は一週間くらいだというのは有名な話だ。
テレビの中には在りし日の戦争の話題。私たちにとってはもう歴史の教科書の中のできごとだけれど、たくさんの人が命を落とし、日常を奪われた事実は未来永劫変わらない。
そして、八月はお盆の季節でもある。
私の家には精霊馬を用意する習慣はないけれど、普段は節約と切っている仏壇の電気をこの時だけは明るくし、毎朝手を合わせる。
人は必ず死ぬ。遅かれ早かれ、みんな。
よく自殺を考える人に対して「生きたくても生きられない人がいるのよ」という言葉があるけれど、私はそんなことは言いたくない。
まだ十七年近くしか生きていないけれど、辛いこと、苦しいこと、悩むこと、年相応かそれ以上なのではないかと思うほどには経験したはずだ。
走ってくる電車に飛び込むことを考えた。
四階の教室の窓から下を見下ろした。
でも、死ぬことはできなかった。
だって、死んだらもう戻れないじゃん。
人生は一回きり。ゲームのようにやり直しはできないし、コンティニューもない。
私が死んだら、今まで身近な人の死を経験したことのない弟たちは始めてそれを目の当たりにすることになる。そんなことをさせるのは大好きな弟たちに申し訳ないし、仲良くしてくれる親友だって、私は幸いにも持っていた。
今は確かに苦しいけれど、楽しいことだっていつかあるはずだし、苦しい経験は酒の肴になるかもしれない。
二度と同じ空はない、と私は思っているけれど、人生の中で二度同じ日は来ることはない。
同じ場所に行っても、同じことをしても、その時の気持ちや背景は全く違えば、感じるものも違うだろう。
人にこの考え方を強制するつもりはないけれど(それこそ今自殺しようとしている人にこんなことを言っても酷でしかないだろう)、せっかく私にはまだ生きる権利があるのだから、今日ここで終わらせたらもったいない。
今この瞬間も、寝て朝起きたら過去になる。
「あの日」に戻ることはできないけれど、思い出は心の中に残り続ける。
輝かしい、温かい思い出たち。それだけじゃない、悲しく苦しいものも。
確かにこんなご時世だけれど、この夏も一回きりだ。
遊びに行けなくても思い出は作れるはずだ。
去年のことも一昨年のことも、鮮やかな思い出として覚えているのだから、今年のこともきっとそうして残るだろう。
どんな形でも、輝かしい夏を送りたい。
夏だけではなく、秋も冬も春も、そしてまた来年の夏も。
その時の「今」でしか残せないものを、たくさん残していきたい。
私のこの夏、令和二年のこの夏は、今年だけの、私だけのものだ。