人生最凶の靴ずれ事件から見る"自然の摂理に沿って生きること"の大切さ
人生最凶の靴ずれ事件発生
先日、仕事のために新しい靴を新調しました。
それは普段の私なら選びそうもない、ベージュのレースを基調とした靴でした。
購入翌日に意気揚々と職場、そして外勤先に履いていったのですが・・・新しい靴って、どうにも靴ずれが起こるものですね。
「もう我慢できない!」と靴を脱いで足の状況を確認したところ、「こんなひどい靴ずれある!?」と思うほど足全体が擦りむけて、怪我だらけになってしまっていたのです。
貼った絆創膏の数、実に7枚。
そして最も怪我がひどい箇所には、コットンボールとティッシュをてんこ盛りに貼り付けないと歩けない始末。
その後、靴を早く足に馴染ませたいがために何度か履きましたが、その度ごとに怪我がひどい箇所への処置を盛り盛りとするハメになったのでした。
怪我から3週間が経過し、全てのかさぶたも消え去った頃。
私はあの靴に再度トライしようとしました・・・が、ここで岐路に立たされます。
あの怪我を恐れ、再度大量のティッシュをクッション代わりに貼り付けるか。
それとも、治りきった足を信じてストッキング一枚でやり過ごすか。
悩んだ挙げ句後者を選んだ私は、例の大怪我シューズにゆっくり足を通し、家を出て恐る恐る歩き始めたのですが・・・
あ、痛くない。普通に歩けるわこれ。
短期間の間に靴が足に馴染んだのか?
一度怪我を負った足のどこにも響く気配はありません。
おかげでその日はかなり上機嫌で外仕事をこなすことが出来ました。
靴ずれ事件を振り返り思ったこと、それは・・
この日外を歩きながら、ふと思ったことがありました。
傷ついた後の心の在り方も、これと同じではないかと。
ある出来事がきっかけで心に大きな傷を負うと、一定の期間は非常に敏感になり、過去の経験を彷彿とさせる出来事と直面すると心に激痛が走ります。
これはとても意識的に対処できるものではなく、心が無意識の防衛反応をとるようになるのです。
それは他者への攻撃だったり、不自然な感情表出だったり、引きこもりだったり・・・これらは全て、痛みへの防衛本能の表れなのです。
そして心の傷がある程度癒え、環境への対応が可能になっていたとしても、そこに目を向けず、ひたすら防衛を発動させている場合があります。
靴ずれの傷が癒えた後で浮かんだ選択肢の一つは、再度ティッシュを大量に貼り付けて靴の刺激に備えるものでしたが、それは外から見ると大変奇異な様子に見えたことでしょう。(実際靴ずれの際には職場でも笑われましたしね)
心の状態に置き換えると、自らを世界に向ける勇気を持てず、鎧をまとい、その姿を人に見せながら生きているようなもの。
外から見ると感情の表出がとても不自然に映るので、気がつく人はかなり多いのではないでしょうか。
鎧ではなく、しなやかさを選ぶ生き方
正直、あれだけ大怪我を負った靴に一枚の絆創膏もなく足を通すのは勇気のいる行動でした。
しかし、怪我をした箇所は心なしか丈夫になっており、しかも足を覆うストッキングがうまく靴のダメージを逃してくれる。
この一枚のストッキングは、心に例えるなら自ら選んだ"しなやかさをもって生きる決意"なのでしょう。
しなやかな心を持つことを自ら選択し、勇気をもって傷つくかもしれない環境に再度飛び込むこと。
そうすることで、世界の感じ方は怯え・恐怖から、自由と喜びに満ちたものに変貌するのです。
心と体は実態の有無という点では天地ほども異なるものですが、そこに流れる原理・原則は同じ自然の摂理。
視認しやすい体に起こることは、等しく心にも起こりうる。
傷を負った後の心の在り方は、自分で選択することができるのです。
黒歴史を抱える私から、伝えたいこと
過去に世界を敵として認識しており、コンビニの店員にすら喧嘩腰だった黒歴史を抱えている私だからこそ、言えること。
必死で傷つかないようにと今まとっている鎧を脱ぎ捨てる勇気をもって、ありのままの世界を感じてほしい。
人はあなたを傷つけようとはしていないし、むしろ困った時には手を差し伸べてくれる人がほとんどではないでしょうか。
この世界の一体誰に、怯えて牙を剥いているのでしょうか。
それは現実には存在しない敵なのかもしれません。
そしてこの言葉を、私の大切な"とある人"に贈りたいと思います。
彼女の心に住み着いている血の涙を流して暴れる獣は、実は幻想であること。
もう存在しない敵に怯える必要はないこと。
何十年も脱げない・・・いえ、まとっていることすら気がついていない鎧に気が付くこと。
そしてその鎧を脱ぎ捨て、一日も早く彼女の心に平穏が訪れることを願ってやみません。
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