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『はてしない物語』を再読して

年末年始に、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を読みなおした。
その感想と解釈を記事をわけて書こうと思う。
今日の分に関しては書籍通販サイトのあらすじ紹介を超えるネタバレはない。
これからあたらしいきもちで読みたいひとも安心してほしい。
ただ、今回の投稿はすごく長いし、読みづらい。
申し訳ないけれど、可能な限り読みやすくなるようにがんばったので、ゆるしてほしい。

わたしは主人公のバスチアンと同じ歳のころ、10歳のときに『はてしない物語』を初めて読んだ。
「終わりがあって物語なのに、はてしないってどういうこと?」と興味を持ったのだ。
読み切った感想は「なんか怖い」という感じだった。
バスチアンはなんだかウジウジしてるし、そのわりには大胆なこともするし。
引っ込み思案でコンプレックスが強いのに周りを見下してるところがあるし、そのうえ理解力は弱くて見通しは甘いし。
そんな感じでまったく共感もできず、入り込めずだった。
「ファンタージエンのことも、アトレーユのことも好きなんだけどなぁ」というのが素直な感想だった。

年末、友だちと話していたときに、たまたま何かの流れで映画「ネバーエンディング・ストーリー」と『はてしない物語』の話になった。
そのときにどんな話をしたのかは、もう正確には思い出せない。
けれど、そのときに「また読んでみようかな」となんとなく思ったのだ。
わたしは普段、一度読んだ本や見た映画は見返さないことが多い。
しかも『はてしない物語』は、当時付き合いのあった同年代の本好きの間でそんなに評判がよくなかった。
でも、大人からは「あれはもう読んだ?」とオススメされることが多かった。
その頃のわたしが好きだったのが、ハリー・ポッターや指輪物語、十二国記などのファンタジーだったせいもあるかもしれない。
けれども、なんとなく、なんとなく今なら少なくとも怖くはないような気がしたのだ。

一週間くらいかけて読みなおしてみて、必ずしもおもしろおかしくはなかった。
正直、読むのが精神的にかなり辛くて、挫折しそうになった箇所もある。
けれども、誰かと生きていく上で大事なことを教えてくれる、心の宝石箱にしまっておきたい考えが受け取れ、生み出すことができる、興味深い物語だと思った。
そういう意味での“おもしろさ”があった。

ひとりの現状に不服を抱え、望まざる孤独に落とされた、特別でもなんでもない少年がささやかな願いを叶えるためのはてしなく壮大な行きて帰りし物語であり、再生の物語なのだ。
この旅でバスチアンが得たのは孤独とモラトリアムの終焉だ。
子どもの頃はよくわからなかったけれど、大人になるとそれがどんな宝物よりかけがえのない収穫なのかが身に染みてわかる。

そして、大人のわたしもやっぱりバスチアンには感情移入ができなかった。
多分、もう歳が離れ過ぎているのもあるけど、そもそもの性格があまりにもちがい過ぎるんだと思う。
とはいえ、彼に同情はしたし、ストーリーを知っていてもなお彼が可能なかぎり幸せに旅を終えられるようにと願わざるを得なかった。
そして、物語に描かれていないこれからの人生も、どうか彼が幸せでありますようにと願っていた。
ぜんぶを理解して同調することはできなくても、寄り添うことはできるようになっていた。

最近よく色々なところで「結論を急がない」「分からないことを切り捨てないで、いつか分かるときが来るまで大事に転がしておくこと」「思考のアイドリングをする」というような言葉を見かけるようになった。
今回の読書体験にも、わたしにとってはそれに通づるものがあったのかもしれない。

内容に踏み込んだ(というか、読んだときにはイマイチ理解が及ばなくて、後から「こういうことかしら?」と思い至った)わたしなりの解釈は、また明日か明後日か、近いうちに書こうと思う。

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