開発と保全の間で/故郷雑感
糞土師の伊沢正名 氏は、先日の講演で自身が野糞を始めた理由の1つに、し尿施設建設そのものへの疑問を挙げていた。
「国マニア」等の著者で、香港九龍城砦に住んだ<激レアさん>の吉田一郎 氏は、民族や宗教の対立に目を向けがちな紛争も、多くの場合、背景には「自分たちの地域の富は、その地域で使いたい」という強い思いがあると述べる。
私が何を言いたいかというと、
合併都市の中央政府にとって、辺境の政策優先度は相対的に低くなるということ。それによって、冷飯を食わされ続けた地域で失策が繰り返される危機に瀕しているという話だ。
首都近郊の大規模緑地帯を原風景に持つ私が生まれる頃(約23年前、旧市時代)、地元で火葬場建設反対運動があったそうな。結局その後、(豪華な)迷惑施設が爆誕降臨した。
直後に合併して、政令指定都市になってしまったせいで旧市の片田舎の地元協定(見返りとしての公園建設)などone of themに過ぎず、我が地元は中央政府(市役所)から蔑ろにされて冷飯を食わされ続けたワケである。
物心ついた時には自宅のすぐ東方に(豪華な)火葬場があり、自転車の練習やマラソン特訓コースになっていた。地元の自治会が2つに分裂しているのは、どうやらその火葬場建設を巡っての「しこり」だということに気づいたのが小学校高学年時の頃。
中学時代に人間関係に悩んで部活をサボっていた時に、川の向かい側から眺めた地元の景色こそが田んぼと斜面林のハッピーセット(?)だった。
スポーツに嫌気が差した後、高校で美術を志したものの挫折していた際に、謎のコジキと野外アートプロジェクトを目撃してしまったのも此処だった。
そして大学時代にはそのアートユニットメンバーとして、其処でアートプロジェクトを実施することになる。一連の企画実績で地元では「若手の環境活動家(笑)」として自然保護団体から持ち上げられる。
アートユニットとしての活動と自然保護団体からの期待は徐々に重荷と感じるようになり、就職に併せてあえて地元を離れる決意をした。
東京を挟んで反対側に在る故郷は、愛おしくも時に乱開発の不安を強く感じざるを得ない。
もし完成した公園が将来的に「生物多様性」と「人間の幸福」の両立を持続できたならば、我が国における自然を基盤とした解決策(NbS)の先駆的な模範例として地域ひいては本市の宝となることでしょう。
逆説的に、将来的な生物環境へのリスクを蔑ろにした公園計画を強行して推し進めるのならば、地域課題に負の連鎖を生むと共に、国際的な環境保全の潮流から大きくかけ離れた「最も新しい21世紀の負の遺産」になりかねないと、思うのである。
見返りとしての公園建設が地元の悲願とはいえ、元々の目的である「自然保護」が「公園建設の早期実現」にすり替わってしまった感が否めない。
私は0歳から23歳になったが、当時の自治会中心世代は80代になっているから「焦り」もあるのだろう。
私の願いは「長期的に見て魅力あるエリア」が造られること。有識者及び地域全体の構想無しでは「造っただけの公園」になってしまう懸念を感じている次第である。